発達障害の私が、「障害者」として生きることを決意するまで

ライター:穹峰蒼志
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幼少期に学習障害と診断されていながら、自分の障害について知ることはなかった私。親や周囲の大人は「障害は完治した」と思っていたようですが、私は就職してから様々な壁にぶつかりました。

就職して3ヶ月後、自分が「発達障害かもしれない」と初めて知る

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私は小学生のときに学習障害の診断を受けていました。しかし母は障害のことを私に伝えていませんでした。

勉強するうえでの困難や友達関係は次第に改善されていったので、母をはじめとする周りの大人たちは、私の障害は「完治した」と思っていたようです。

しかし私は会社で働き始めてから「自分が発達障害かもしれない」と気付くことになりました。

学生時代、様々な困難はあったものの無事大学へ進学した私は、システム開発業の技術者を目指して勉強し、卒業後は望み通りシステムエンジニアとして就職しました。

しかし、働き始めて2~3ヶ月後、早くも壁にぶつかりました。

それまでの研修では特に問題無かったのですが、実際にシステムの開発作業を行い始めると、ほかの社員と関わることが多くなったためか、トラブルが多発しました。

トラブルの内容は、

・作業指示を他の人よりも詳細に話さないと理解できない
・私の話の要点が分かりづらい
・話の行間や雰囲気を察せず、上司の意図を誤解してしまう


といった、コミュニケーションに関することでした。

自分でもどうしたらいいのか分からず困っていると、上司から「発達障害ではないか?」と指摘されました。「発達障害」という障害の存在を知ったのは、この時が初めてでした。

さらに母からも、私が過去に学習障害の診断を受けた経緯を聞き、自分のことについてもっと知る必要があると考えた私は、精神科医の元で発達障害の検査を受けることにしました。

受け入れられなかった診断結果。「健常者」として生きることを選ぶ

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心象風景「別たれた世界」
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発達障害の検査を受けることを、私はあまり深刻に考えていませんでした。
なぜなら、母から「障害は完治している」と聞かされていたため、ちょっとした対処法で解決できると思っていたからです。

しかし検査の結果を見て主治医が行った提案は、

「今の仕事を辞めて障害者雇用で再就職する」

というもの。私は大いに困惑しました。

私は、

「確かに仕事は上手く行ってないけれど、辞めるほどのことではないだろう」
「上手く行っていないことを障害のせいにするのは、自分の苦手なことから逃げることだ」

と考え、主治医の提案を受け入れられませんでした。

また、家族に相談すると、「私に障害があるわけがない」と全員の見解が一致しました。

こうした周囲の声もあり、私は主治医の診断を受け入れず「健常者」として生きることを選びました。

そして、働いているうちに「自分が発達障害である」ことはすっかり忘れたのでした。

解雇、そして再就職活動

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心象風景「あとに残ったもの」
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自分が発達障害であることを忘れて仕事に励んだ日々の中では、成果を出せたときもありました。

しかし、それよりも多くの失敗が続きました。会社は努力している私を見て、様子をみてくれていましたが、4年近く経っても問題である「仕事上のコミュニケーション」はうまくできないままでした。

そしてついに、私の解雇が決定しました。

解雇を宣告された時は、とても悲しかったのを覚えています。

しかし、私はこれ以上頑張って挽回出来る見込みを自分でも感じられませんでした。また、解雇に無理やり抵抗して、会社にしがみ付いているだけの人生も嫌だと思い、解雇を受け入れました。

再就職に向けた活動は難航しました。

ハローワークで求人票などをチェックしましたが、「コミュニケーションに関する能力不足」が理由で解雇された私を雇ってくれる所なんてあるのかと途方に暮れ、全くと言っていいほど再就職活動は進みませんでした。

私は次第に家にこもるようになりました。「このままだと精神を病む事になるだろうな」とぼんやり考えていました。

人生に、絶望していました。
次ページ「迫りくる自分の無気力に対する不安。一か八か、わずかな希望に賭ける」

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