くろすけさんのページ

くろすけ
ASD当事者です。2次障害としてのうつの思考ループにずっと苦しめられてきましたが、ようやく解放されつつあります。

自分は人の意志に流されて生きているところがあり、不安や嫌なこと以外に、自分自身の感情や気持ちがあるのかどうか、何がやりたいのかとか、自分でもよくわかりません。

ここは自分の感じたことや思ったことを整理しながら書き表す練習の場みたいな感じです。それによって自分の特性もだんだんわかってきました。

自分の特性を理解し、それと向き合いながら、前向きに生きていきたいと思ってます!!
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やらなくてはならないことが多すぎるのに、簡単に済ますことができず、難しく考えてしまいます。結果、仕事もたまってしまい、悪循環です。やる前から疲れている感じです(^_^;)

自分だけで済ます仕事ならいいのですが、人に依頼してやってもらう仕事も多く、自分が次の仕事を始めてから、こちらに質問などで何回もやりとりしないで、手離れよく済むように考えて、説明をつけたり、調整をきちんとしてから仕事を渡すので、手間がかかります。

元は自分が人の気持ちをわからないのに、無理して相手に何が起こるか想定してそれをクリアにしていること、自分が同時に別々のことに対処するのが難しいので、手離れよくすむように、一個一個に抜けが出ないように、徹底的に処理してから渡すことで、疲れ切ってしまってるんだと思います。

発達あるあるかも知れませんが、やはり人と同じことをやっても、自分は人より負荷が高くなってしまう気がします。クローズ就労はやはりキツいってことかも知れません。
って、ここに書いただけでも少し気が紛れたような気がしました。
そうめん
さっぱりと茹で上がりも早いそうめんが好きです。
卵焼きと味付け椎茸を細く切ったものと一緒に食べます。

あと、みょうがとナスを入れてとろみをつけただし汁に、そうめんを少し入れて、汁物がわりにしてよく食べました。
自分以外にも、自分がどうしたいのか、何を考えてるのかよくわからないという人が何人もいるんだなあと思いました。これは大きな発見でしたが、これから先の長い人生、自分は何を指針として行きていけば良いのか、よくわかりません。そのことに対しては何の解決にもなりませんでした。

リタリコでの親子の関係を見ていると、親というのは無償の愛を注いでくれるありがたい存在なんだなあとつくづく思います。自分も親が生きていた時は言われた通りにやっていれば良かったのですが、他の人よりも早死にしてしまったせいで、今はもういません。それが原因でいろんなことに迷ってばかりになってしまっています。恐らくマザコンと言うよりは、発達として、誰かに依存しないと生きていけないのかなあとも思います。

もし親に代わるような信頼できる人と出会えたら、言われたことを真面目に精一杯頑張るのが得意な特性なので、その人の言う通りにするのが一番幸せなのかも知れません。そうでなければ、自分自信で決断していくのは難しいですし、目先に見えるものがすべて正しいような気がしてしまうので、運を天に任せて、最初に目についたことを頑張ってやり続けるというのも有りなのかも知れません。

発達に生まれたのも運命かも知れませんし、これから先の出会いやぶつかるであろう壁の存在もすべて運命かも知れません。受け入れて、頑張っていくしかないのかなあとも思います。
フォローしてる人が、人に興味がないので、人の写った写真は撮らないんだって話を読みました。
それを読んでハッとしました。
考えてみたら、自分もこれまで景色の写真ばっかり撮ってました。
なぜだか人が写ると失敗作のように感じてしまいます。

自分は一つの風景として構図やバランスの良い完成された写真が好きで、そういったものが撮りたいのです。
人が入るとまさしくそれは風景の写真じゃなくなります。

それに人の写真は表情やポーズのあることが邪魔というか、自分はどうやら人を物のように捉えていて、動の状態については、そこに意味を感じずに、単なるブレや収まりの悪い不完全な状態と捉えてしまいます。
また、そういった予想されない動きを好きでないことにも気づきました。だから、ファッション誌にあるような無機質な感じの人の写真は嫌いではありません。

楽しそうな瞬間というハプニングを捉えた生きた画像は、自分にとってはあくまで不完全な失敗画像でしかなく、風景にそんな人物が写った写真もまた自分にとっては失敗作でしかないのです。

なんだか自分の人への関心のなさ、ひいては発達凸凹の影響を改めて感じてしまいました。
泊りがけの研修の準備がすごく苦手です。何をやらされるかわからないところも不安なのですが、まず荷物を準備するところからしんどいです。

何を持って行けば良いのか、想定される状況から必要なものを選べばいいのだと頭ではわかっているつもりなのですが、その想定される状況を考えることがすごくしんどくて、頭の中ではこれも必要なのでは?が延々とループし続けてしまい、途中で投げ出しながらのほとんど寝ずの対応になってしまいます。

最低限の着替えや薬とか持ち物を書き出してチェックしようとしても、この気温だとどうなのか?とか、着替えの中身も何を選んだらいいのかなどの迷いや不安がどんどんふくらんでいきます。想像することも、自分で決断することも苦手なのに、潔癖症というか、きちんとすることにこだわりみたいのがあります。昔から遠足とかの荷物も異様に多かったです。普通の人はあまり気にしないかもしれないことにこだわらずにいられない自分がしんどいです。
子供の時から食べ物の好き嫌いが多くて、いまだに直りません。というか、無理して直そうとは思ってないのですが、大人になるにつれて、残したら作った人に悪いという気持ちが出て来たので、ファミレスとかでなく、作った人の顔がはっきりと浮かぶ人の場合は、息を止めて味が口の中に広がらないように食べる時はたまにあります。

いろいろ考えてみると、一番嫌いな野菜は玉ねぎとかのネギ類だと思います。子供の頃から、カレーやミートソース、ハンバーグに入ってるのも完全に取り除いて食べていましたが、玉ねぎの味はしっかり残っていて苦手でした。玉ねぎの味噌汁とかも大嫌いです。何となく嫌いな理由を野菜別に整理してみようかと考えてみたのですが、玉ねぎについてはどうしても自分の気持ちにピッタリな言葉が浮かびません。ヒントを得ようとネットを見たら、やっぱり嫌いな理由がよくわからない人がいるのを見て少し安心しました。

考えてみたら、玉ねぎの味自体が、こんな味って表現できるはっきりした言葉がないような気がしました。自分は食べた時にカーッと広がるような味と匂いが苦手なような気がします。酸味に近いような刺激のある広がり方なのに、酸っぱい味とは全然違います。それでも古くなってくると、酸っぱいような匂いがして来て、よくわかりません。いろんな料理に使う万能野菜なので、食べれるようになった方が楽だろうとは思います。

ちなみに一番好きな野菜はたぶんジャガイモです。調理法にもよりますが、ホクホクした感じとか、主張の少ないというか刺激の少ない感じがとてもいいと思います。
自分がよちよち歩きを始めた頃、親がちょっと目を離した隙に、もう近くの大通りを1人で横断してたって話を聞いたことがあります。

背丈の何倍もあるような大きなダンプカーが止まってて、その前をよちよち歩いてる子供の姿に気づいた時、親は卒倒しそうになったとか言ってました。

昔から、目を離すとすぐいなくなる落ち着きのない子供だったようです。それでも自分は今でも生きてますが、リタリコを見てるとその頃は親にだいぶ心配かけたんだなあと思います。

いま考えると、小学校中学年くらいまでは多動が混じっていたような気がしますが、高学年からはぐんとアスぺっぽくなったというか、おとなしく変わったような気がします。なんか特性もたぶん変化するんだろうなあって思います。
自分のダメじゃないところはどこなんだろう?何かあるのかなあって思います。ネットで見てたら、自分の存在意義や存在価値は、多くの場合、自らで選び取り獲得していくものですとありました。以下抜粋。

①私は誰に(何に)貢献できるのか?
(例)子供たちのために、勝利のために、仲間のために、地球のために、愛する人のために、芸術のために、会社の未来のために・・

②私はそこに何をもたらすことができるのか?
(例)笑顔を、調和を、希望を、規律を、活気を、対話のある文化を、新たな視点を・・

③そこで私にできる役割はあるか?
(例)リーダー、ムードメーカー、応援団、縁の下の力持ち、管理人、アイデアマン、調停役、教える人、先頭を走る人・・

④私を必要としてくれる場所(人)はどこか?
(例)仕事、学校、家族、ボランティア、特定の集団、特定の個人、ペット、特定の課題や問題・・

仕事は頑張っています。そういえば、たまに感謝してもらえることもあります。縁の下の力持ちです。大切な仕事に関わってる自負はありますが、それでもうまくスムーズにいかないことも多くて、見当違いなところで神経をすり減らしてそうな気もしたりして、なんだかとても疲れています。

ペットを飼って世話するのがいいかなあとも思いましたが、仕事も忙しいし、自分の生活も満足にできていないのに、命の関わることなので、ちゃんとやれるか、少し不安があります。上の抜粋の4項目よく考えてみようと思います。
以前、にぎやかな場所だと目の前で自分に向かって話しかけてくれてる人たちの会話さえ耳や頭に入ってこないと書きました。これは聴覚における選択的注意という、自分に必要な情報に集中する力が生まれつき弱く、まわりの人たちの話や雑音ばかりが気になってしまうために、肝心な自分に向かって話しかけている人たちの声や話の内容に集中できないんだそうです。

さらに自分は特性として、ワーキングメモリーの容量の問題などもあって、話し言葉以外の相手の表情の読み取りや記憶の中にある関連する情報との照合などの処理が瞬時にできず、一対一ならまだしも、複数を相手にするような場合は、その内容を理解して自分なりの解釈に置き換えて発言する言葉を選んでるうちに、もうすでに話題の中心が先に進んでたりするため、発言するチャンスを逃してしまったりします。そんな経験を重ねていくうちに、話すことに対して苦手意識を持ち、ますます臆病になってしまったのかなあと思います。

聞くのも話すのもおぼつかず、何だろなあって思いますが、何をするにもその都度ニュートラルに戻して、いったん頭の中をクリアにしないと前に進めない感じです。小学校六年生の時に、隣のクラスの担任の先生から、君は大人しくて、いつも黙って人の話を聞いているね。中学生になったらどう変わるかなって、サイン帳に書いてくれたことがありました。その頃の気持ちがどうだったのか、今みたくまだ理屈で置き換えて考えるようなことができなかったのでわかりませんが、おそらく今、自分が解釈している状況が昔から何も変わらずに、続いて来てるんだろうなあって思います(^_^;)