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Akemi Watanabe
娘のこはる(5歳)が、軽度の知的障害の手帳を申請するまでの記録と、日々の生活をアメブロに書いています。
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一昨年の11月に、こはるの支援学級に行く準備が始まって、バタバタと児童相談所や、区役所に行って手続きをした。

年明けには、私たち夫婦の発達検査をして、家族全員が軽度の知的障害だという事が判明した。

わたしは、IQの数値がグレーだったけど、注意欠陥障害があって 会議にかけられた後 手帳の申請が下った。( 春から精神科で検査をしなおして、正式にADHDと判断が下って、ストラテラを服用して自分と向き合う事にした。)

こはるが、小学校入学して しばらくは、泣き通しで どうなることか と想ったけど、支援学級の先生とは 毎日 送り迎えの時や、連絡帳で やり取りで 笑顔で通えるようになった。

軽度の知的障害とわかった時、この子の将来どうなっていくんだろう?と不安にかられたけど、今は、そんなことは どーでもよくて こはるが、一日 楽しく過ごせるようにと言うのをメインに過ごしている。

夫も、軽度の知的障害なので、気に入らないことがあると すぐにブチ切れちゃうけれど、ADHDの私が日々ドジをしっぱなしなのも受け入れてくれてるんだよなと想うと、イライラすることもあるけど、感謝の想いが湧いてくるようになった。

この先も、トラブルは耐えないかもしれない。けれど、そんな状況でも、明るく前向きに生きていれば、必ず乗り越えられる気がする。

そんな想いを残したくて、久しぶりに書いてみました。

読んでくださって、ありがとうご
ざいます。
昨日、母親と娘と三人で 卒園式の服を探しに大型スーパーに出掛けたのですが、時間がないにもかかわらず 私の悪い癖で 好き勝手な行動をして母を激怒させてしまいました。

私は、この間 発達検査の結果が出て、IQ78数値で言うと境界域 グレーゾーンでした。

私(今年44歳)が小学生の時は、明らかに普通の子と違うって子だけが目立っていたけど、その頃の私は、人とは何かが違うと いつも感じながら 努力すれば何とかなるって信じて勉強していました。

けれど、テストでは勉強の甲斐もなく 先生に努力してるみたいだけど、何かが違うと言われて平均点以下しか取れていませんでした。

母は、私が 3歳くらいに スーパーに連れて行った時に、興味があるところに勝手に行ってしまい、 泣かずに歩き回って迷子になっていたので 外出すること自体をやめたと言っていました。

そして、私は 小さい頃から、人が怒ると言う行為を見るのが とても苦手で、自分はもちろんの事 他人が怒られている時も自分が怒られているみたいな気持ちになって胸が苦しくなります。

私は、母から褒められたことがありません。

母に聞いたら、褒められずに育ったから褒め方がわからないと言っていました。

私の娘も、軽度の知的障害と去年わかりました。

母は、全力で応援するって言ってくれました。

それは、本当に心強くてありがたいと想っています。

けれど、その前に わたしの事も 少しは理解してもらいたいと心から願っています。

いまは、激怒させてしまって反省は もちろんしていますが、怖くて母の顔も見れない自分がいます。

できる事なら消えてしまいたいと想うほど、、、

前に、もっと前に障害ってわかりたかったって言ったら、そうしたら ずっと独身のまま実家に寄生してたでしょう って言われました。

結婚したのは38の時で、それまで ずっと家業は手伝っていたけど、ほぼ何もせず 母に寄生虫呼ばわりされていました。

知的障害ではグレーゾーンだけど、検査でADD(注意欠陥障害)だと言うことも判明しました。

小さい頃からの言動は、全てADDからくるもので間違いないようです。

そして、現在の 時間の管理や ものの片付けが出来ないのも。

母からしたら、時間にルーズで、片付けられない、ダメ人間としか想っていません。

それが、とても残念でなりません。

本当に わかって欲しい人に理解されないなんて。

パパも軽度の知的障害だとわかり、障害がわかる前は、いざこざも絶えませんでしたが、いまは家族でいる時が何よりの幸せです。

読んでくれて ありがとうございました。




娘が、幼稚園 年中の時から 色の名前がわからなく先生に相談していたのですが、その状態は 年長になっても変わらずピアニカをやる時に、楽譜を見ながら(色で書いてあったのですが) ピアニカに貼っている同じ色シールを教え演奏することが難しそうでした。

園長先生に相談したのは、その年の10月で、幼稚園を回っている支援の先生に相談することになって翌月の11月に発達検査をすることになりました。

検索結果で、支援学級に進んだ方が良いと言われ、そこからバタバタと市役所に行って受給者証を申請して児童デイに通って、支援学級に進む準備をしました。
小学校に入学して、想ったこと。

勉強をさせないでください。
ただ元気に登校してくれればそれでいいですから。
(入学時に先生に言われた言葉です)

支援学級には、教科書がなく、代わりに生単(生活単元)と言う人間形成の授業があります。

いくら交流学級と行き来ができます。と言われても、教科書で何を習ってるのかわからないんじゃ行きようない気がします。

そして、普通学級の子も。

支援学級に勉強がないと知ったら、見た目以上に差別の対象になるのではないのかと不安になります。

どーして支援学級は、勉強しなくて良いの?

学校、そして国が何を考えているのか、小学生にもわかる言葉で、きちんと説明して欲しいと想います。
YES
支援学級に行くことが決まったあとに、児童相談所に行って軽度の知的障害の手帳を申請できた経緯を含め、家族全員が軽度の知的障害であることと それに加えて、わたしがADDであることも打ち明けています。

支援学級の先生には、これから6年間お世話になるので、なんでも知らせた方が良いと考えています。
私たち家族全員が、軽度の知的障害だとわかり、手帳を申請できたのですが、なぜ、更新があるのでしょうか?

パパの年は、53
わたしは、43
娘は、6さい

パパは、更新なし
わたしは、10年後
娘は、2年後です

知的障害は、生まれつきの脳機能障害で変わることがないのに、、、

生活に不自由がなくなると手帳が貰えなくなるなんて、おかしいと想います。
YES
今日、久しぶりにパパの言葉に腹を立てて泣き叫びましたっ。

私たち家族は、3人して軽度の知的障害を持っています。


今朝、自分の大事にしている物を勝手に触り、破ってしまった娘を相手に、本気になって叱り飛ばしていたので

そんな感情的に怒ってるパパを許せなくなり

『もう少し、私たちの障害を理解してくれないと困る』

『私たちは、何度も同じ失敗する障害なの、それが我慢出来ないのなら、出て行ってもらうしかない』

って吐き捨ててしまいました。

私は、軽度の知的障害の他にADDと言うと注意欠陥障害も併せ持っていて、何度も同じミスをしてしまいます。

娘も、ダメと何度も言い聞かせても同じ失敗してしまいます。

パパには、ADDの要素がないのか、全く理解してくれない時に悲しくて仕方なくなってしまいます。
YES
今週末 大阪から姉が来ます。

高校受験を合格した甥っ子は、ひと足先に一昨日 札幌入りして 昨日逢ってきました。

6歳の娘は、甥っ子のことを、ちゃん付けで呼んでいました( 笑 )

9歳も離れた お兄ちゃんなのにねっ。(不思議です)
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約7年前 違反報告
ほんと児相は、検査の結果だけしか見ていない気がして、私たちの気持ちを聞いてはくれますが響いてないように想います。

娘は、IQ68で軽度の知的障害に該当しましたが、12月に初めて受けた知的障害ではIQが44で、その数値では中度の知的障害に該当します。

なぜ、こんなに数字が変わるのか聞くと、児相の知的障害は、比較的簡単なIQテストなので、娘が理解できる問題が多かったのかも知れません。って言われました。

2度目の医師による診断も、一方的に話をしてただけで私が聞きたいことには応えてくれなくて、不愉快な想いをしました。

4年後また行った時に、検査値が上がって手帳が申請出来ないなんて、そんなおかしい話はないと思います。

知的障害は、脳機能障害で一生治ることがないのですから。

私も含め、軽度の知的障害が、少しでも生きやすい世の中になってくれるよう、頑張りましょう。