「生きたくても生きられない誰か」の存在で、命の大切さを感じられるのか?「死にたいほどに苦しんでいる私」は、生きる希望を見出せるのか?

では、「死にたい」と打ち明けてきた人にはどう返答・対処するべきなのか。
信頼できる大人は、大人にとって不都合な言動を単純に禁止しません。きれいごとを言い聞かせもしません。大事なのは、子どもの言動の原因です。「死ね」でも「死ぬ」、「死にたい」でも、「もしも話せそうなら教えてほしいのだけれど」という謙虚な言葉で、言動の背景にある問題を探り、できればその問題の解決に向かって子どもと一緒に考えることが必要でしょう。
もちろん、問題の解決は容易ではないかもしれません。しかし、大切なのは、「死ね」や「死ぬ」といった言葉に耳を傾けてくれる大人との関わりの積み重ねです。そうすれば、たとえ「いのち」の意味はわからなくても、自分や他人を大切にすることを自然に学んでいくはずです。

「「誕生学」でいのちの大切さがわかる?」『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』(松本俊彦、姜昌功、ほか/星海社新書)P155より
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4065151619/
こちらの質問に対して、あるいは患者から自発的に「死にたい」という言葉が出てきた場合、訴えを軽視しないで真剣に向き合い、そして支援を約束する姿勢が伝わるようことが大切である。
(中略)
安易な励ましをしたり、やみくもな前進は唱えたりするべきではない。「残された人はどうするのだ」、「家族の身にもなってみろ」、「死んではいけない」という叱責や批判、あるいは強引な説得も好ましいものではない。「自殺はいけない」と決めつけられた時点で、患者はもはや正直に自殺念慮を語ることができなくなる。そうなった場合、援助者は自殺のリスク評価が困難となり、再企図を防ぐことはおぼつかなくなるであろう。


『もしも「死にたい」と言われたら 自殺リスクの評価と対応』(松本俊彦/中外医学社)P44-45より
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4498129741
過去を振り返って思う。「死にたい」という言葉を繰り返していた頃の私は、確かに生きたい気持ちがあったのだろう。しかし、「死にたい」と語ること、思うことを否定されるたびに、死にたいほどに苦しんでいる気持ちや、ともすれば自分の存在さえ否定されているように感じられていたものだ。「死にたいほどにつらい、この苦しみから逃れたい、でもどうすればいいのか分からない」と言語にする余裕がないゆえの「死にたい」だった、私の場合は。そして、その言葉を封じられた私は、助けを求める術を見失った。

中学生だった私はある日、ぼんやりとテレビを眺めていた。誰が出演していた、どんな番組であったかは完全に失念している。ただ、「自殺を食い止めたい」「命を大切にしてほしい」というような話の流れで、
「生きたくても生きられない人だっているのに、自ら死を選ぶなんてもったいない」
と、誰かが明るく、したり顔にも見えるような表情でコメントしていたことはしっかり覚えている。
(生きたくても生きられない誰かと、死にたいほどに追い詰められている私の苦しみは別物なんだから)
うんざりして、私はテレビの電源を切った。
(生きたくても生きられない人だっているのに、って言われてもね。あげられるならその人に命をあげて、最初からいなかったことにしてほしいよ、私なんて)

「死にたい」と願うほどのつらさを解決できないままに命の大切さを語られたところで、心に響くわけがないのだ。

もしわが子が苦しみを吐露する日が来たら――「死にたい」と繰り返しながら生き永らえた私が心に誓うこと

ところで私は料理が好きだ。自炊の経験はそこそこ長いので、自分好みの料理をつくることは、経験則により容易にできる。しかし他者に向けたものとなると話は別だ。10年一緒に暮らしている息子の好みでさえ、私は完全に把握できていない。彼があまり好まなかった料理について、「どういうところが苦手だった?」と聞くようにしているが、はっきり答えてもらえることもあれば、「うーん、うまく言葉にできない」という返答を受けることもある。

そこで私は「美味しいと喜んだ料理」と「苦手だった料理」の要素を洗い出すべく、息子自身の言葉が聞けたらそれと共にメモするようにしている。それを元に、本人が「苦手な料理」と思っているものから、可能な限り苦手な要素を取り除いたり、好む要素を加えることで、「美味しい!」と喜んでもらえることもあると知った(息子には感覚過敏もあるため、どうしたって食べてもらえないもの、食べられないものもある、念のため)。

細々とメモをして分析したのは、私が好んで選んだ行動ゆえ、ほかの方にお勧めしたいわけではない。しかし、「こういう考え方や行動をしないなんて(あるいは「するなんて」)もったいない!」と、相手の選択や主張をとがめるよりも、一旦受け入れ、選択や主張の背景を洗い出してから対応する方が、打開策を見つけ出す近道になるのではないかと、私が感じられる要因の一つになった。

もちろん食事の苦手と希死念慮は全く別の話であるし、同じようにできるとは言い切れないことは、私だって知っている。

それでもふと考える、Tも、私も、「死にたい」という言葉の背景に何があるのかを見つめ、問題を洗い出すことができたらどうなっていたのだろうかと。いくら考えたところで、3月生まれの彼女が、5月生まれの私の齢に追いつくことはもうないというのに。
だからというわけではないが、これから成長するに連れて様々な問題に直面し、悩みを抱える可能性のある息子の言葉や行動を見つめ、苦しみの背景を探る手助けができたら、と思っている。私にできるのはそれぐらいだ。
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