【前編】30歳、プログラマー、大人の発達障害。私が掴んだ「人生をラクに生きる」サバイバル術

ライター:凸庵(とつあん)
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私は現在30歳、発達障害あり。ベンチャー企業で社内システムを開発する部署の管理職をつとめています。20代後半でASDとADHDと診断されたのは、仕事で許容されないミスが続き精神科を受診したことがきっかけでした。

生きにくさを感じた子ども時代や不登校、うつ病による休職を経てようやく掴んだ「人生をラクに生きる」サバイバル術とは。ちょっと低空飛行だけど、今、幸せに生きている私の話を、前・後編に渡って紹介します。前編では、子ども時代の両親との関わりや不登校、うつ病を乗り越えるまでをお伝えします。

こだわりが強い、ちょっと変わった子どもだった

小さいころの私は、ものに対するこだわりがとても強く、枕とタオルケットはいつも使っているものでないとダメ。外に出るときは、いつも好きな人形を抱えていました。

はたから見ると変わった子どもだったに違いなかったけれど、両親はよその子と比べることなく育ててくれていました。おかげで、小学校入学前までは、特に問題になることもなく生活できていました。

家庭崩壊の危機へ!?不登校になった小学4年生のころ

小学校に入ると、周りの子どもたちとの違いに自分でも気づくようになりました。他の子が楽しそうにしていることが、自分はまったく楽しくない、何が楽しいのか分からないのです。でも、家でも学校でも、本当の気持ちを見せないでいました。

私には兄と弟がいて、3人兄弟を育てる両親は本当に大変そうでした。それで「いい子でなければいけない」「素直でニコニコしてなきゃいけない」と思い込んでいたのです。だからか、誰も私の違和感に気づいていないようでした。

小学校4年になった頃、私は、当時まだ珍しかった不登校になりました。

何か決定的な出来事や明確な原因があったわけではありません。でも、ある日突然、学校に行くのが嫌になりました。

クラスメートと話が合わず学校生活が苦痛だったことと、家族の前ではいい子を演じていたことなどが重なって、限界が来たのだろうと今は思います。

毎日の言い争い!わが家は暗黒時代に突入した

不登校になると、両親の態度は一変しました。毎日のように両親と言い争いをするようになったのです。

母親からは「今日は学校行かないの?」から始まり「なんで学校に行ってくれないの!」と何度も言われました。父親には「今のうちからこんな生活をして、将来どうやって生きていくつもりなんだ?」と責められました。

私からも、母親に対して「親の育て方が悪かったんだ!」とか「親なのになんで分かってくれないんだ!」など、傷つけてしまうような言葉を何度もぶつけてしまいました。

以前は笑顔があふれていた夕食のだんらんは、暗い顔で黙って食事をとるだけの時間に。小学校に上がった弟まで「お兄ちゃんが休んでるなら僕も学校休みたい」と言いだす始末で、両親の顔はさらに暗くなっていきました。

そのころの私は、両親は自分のことも周りのことも、何でも知ってる万能な存在だと信じていました。それまでは、私が何も言わなくてもいろんなことを察してくれていたし、質問すれば何でも答えてくれていたからです。

「今までは何も説明しなくても全部分かってくれていたのに、どうして今のつらい気持ちを分かってくれないんだ!」なんてことをずっと考えていました。

両親の変化と、夢中になれるものとの出会いが、私を変えた

毎日言い争う生活が1年半程続いたころ、徐々に光が見えてくるようになりました。話し合いを通して、両親は何でも知っている万能な存在ではなく、ただのひとりの人間なんだということに気づいたのです。

両親はさまざまな本を読んだり専門家に相談するようになりました。そして、私への対応に変化があらわれてきたのです。母は仕事を休職し、不登校で家にいる私とよく話すようになりました。

以前は「なんで学校に行かないの?」から始まっていた毎朝のやり取りは、「別に休んでいいからね」「無理していかなくていいよ」という声かけに変わっていました。父親からは「休みたいなら休んでもいいけど、将来のことは自分で責任をとるんだぞ」と言われるようになりました。

小さな「できた」も大げさにほめる―両親の変化が私の心の緊張を解いて

なかでも一番大きく変わったのは、両親がちょっとしたことでほめてくれるようになったことです。

特に母親はとても大げさにほめてくれるようになりました。ちょっといいことがあっただけで、とてつもなくすごいことをしたかのように大げさにほめてくれたのです!

それまではテストでいい点を取ったり家事を手伝ったりしても特に何も言ってくれませんでした。だから、初めて母親にほめてもらったとき、私は心底うれしくて、泣きじゃくりながら母親に頭をなでてもらったことを鮮明に覚えています。つらくて固まっていた私の心は、少しずつ解けていきました。

いまも私を支えるプログラミングとの出会い

両親との関係で光が見え始めたころ、私は自分だけのRPG(ロールプレイングゲーム)をつくるゲームと出会いました。数少ない友人から借りたそのゲームが、プログラミングの楽しさを教えてくれました。

生まれて初めてのプログラミングは「主人公が家に入ると、その中にいる人の前まで自動的に歩いて話をする」という簡単なものでしたが、私にとっては大きな転機となりました。なぜなら自分の考えや気持ちを言葉にして伝えるのが苦手だった私が、自分の考えをダイレクトに表現することができた初めての体験だったからです。

画家が絵で自分を表現するときのように、詩人が詩で考えや感情を表現するときのように、私はプログラミングでなら自分を表現できるかもしれないと思いました。

将来は絶対にプログラマーになる!と決めた私は、少しずつ学校に通うようになりました。中学校では少し不登校をぶり返しましたが、何とか地元の工業高等専門学校(通称 高専)に入れる程度の学力を身につけられました。

人生で初めて、学校生活を楽しいと感じられた

私が通った高専は寮生活でした。

わが家はいまどき珍しいほど貧乏ではありましたが、親が(本人曰く)清水の舞台から飛び降りる気持ちで私専用のノートパソコンを買ってくれました。私はそのパソコンを使って毎日ひたすら、学校でも寮でも、プログラミングの勉強をしました。

学校の敷地内で生活できて、しかも変化の少ないスケジュールの中、ひたすら自分の好きなことにのめり込める環境は、私にとって最高でした。それまでは学校に通うことは苦痛でしかありませんでしたが、高専に入ってようやく、学校を楽しいと思えるようになったのです。
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