発達障害=天才?「凡庸な自分」も「息子の存在そのもの」も肯定する――才能探しに苦しんだ小学時代に出あった言葉と、いま願うこと

ライター:鈴木希望
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何度も繰り返すが、私は特別な才能を持たない発達障害当事者であり、なおかつ凡庸な自分を受け入れている。しかし、かつては自分の中にあるかもしれない非凡さを探すことに執着し、苦しんだ日々もあった。そんな私の視点を変えた「発見」とは。「凡庸な自分」を受け入れられない背景には何があるのか。自分なりの考えを、2回に分けて書こうと思う。

ポジティブでもネガティブでもなく発達障害を受け入れる私が抱く、「発達障害児者=天才」説への強い違和感

日頃から方々で申し上げているが、私はとても凡庸な人間である。発達障害があるという点ではマイノリティであり、その特性によって失敗をしたり、罪悪感に苛まれるなどの悩みはあるが、平々凡々に生きている。「発達障害があったっていいことがない!」と嘆き続けているわけでもなければ、「特性は強み!ポジティブに捉えていきましょう!」などと啓発する気もない。

「まあ、厄介事はいろいろあるけど、発達障害がなければ人生イージーモードとも限らないし、なければないなりの悩みもあるでしょうよ。これが基本設定なのだし、どうにかやっていくしかないよね」というのが、私のスタンスである。いつでもポジティブではないが、ずっとネガティブでいるわけではない。

この辺りの考え方は「いつでもポジティブ」から「ずっとネガティブ」までの幅があって、度合いは人それぞれ、どれが正しいという話ではない。もちろん、「いつでもポジティブではないが、ずっとネガティブでいるわけではない。揺れがある」という私が中庸だとも思わない。一口に発達障害と申し上げても、十人十色というわけだ。

以前もそんな話をコラムに書いた。
「かわいそうな人へ愛の手」を出す前に、できることがある気がしている障害者の私。のタイトル画像

「かわいそうな人へ愛の手」を出す前に、できることがある気がしている障害者の私。

ところが、なぜかそれを許してくださらない方が時折いらっしゃる。

例えば、息子には発達障害があると私が明かしたとき、
「え、じゃあ今から何か習い事をさせたほうがいいんじゃない!?そういう障害がある人って、常人にはない特別な才能があるっていうし、今のうちに伸ばしてあげないと!」
などとアドバイスをくださる、いわゆる「発達障害児者=天才説」支持者である。

息子の持てる才能を伸ばすにしても、なぜ本人が希望しているわけでもない習い事をさせにゃならんのだなど、突っ込みたい点はさまざまある。しかしそれ以前に「ハンディがあるのだから、それぐらいのアドバンテージがないと不公平。かわいそう」という考えが根本にあるのだと、会話の端々から分かるので、真面目に返答する気になれない。

「本人が望んだら考えるけどね」
「えー!もったいない!せっかく天才になれるかもしれないのに!」

(天才はなろうとしてなれるものじゃないし、息子はこのままでも最高なんだ。ほっといてよ)
との言葉をグッと飲み込み、私は曖昧に笑うのだった。

「非凡性」での形勢逆転を狙って苦しむ私の視点を変えた「不可能性の発見」

前述のような考え方に私が強い反発心を抱くのは、かつての私がそうした考えの持ち主で、それによって自分の首を絞めていたからだ。

飛び抜けて勉強ができるわけでもなければ、高い身体能力を持ち合わせてもいない。容姿も十人並み以下で、まともな人間関係を築くのにも困難が生じるほどのコミュニケーション下手。一家庭の構成員としては、そうした事実もほぼ問題にならないのだが、保育園や小学校などで集団生活を送ることになると、能力は相対的に評価され、自分ではどうにもならない容姿さえジャッジの対象となる。

それらによって周囲の扱いは変わり、凡庸かつコミュニケーションに難がある私は、嫌われ者へとまっしぐら、教師による吊るし上げの対象になったことも、一度や二度ではなかった。

この苦しみから脱するには、自分の中にあるかもしれない非凡さを見つけて、それにすがるしかない――幼いながらに私は、もがいた。どうしたら自分の非凡性を見つけ出せるのか分からないまま。

そんな最中の小学4年生のとき、国語の授業で『人生は不可能性の発見』という文章に出会う。映画監督・大島渚氏による随筆だ。

ざっくり説明すると、組織や集団など、新しい世界に飛び込んで行くとき、どのような心構えを持てば良いのか、どのように自分の魅力や才能を見つけ出せば良いのかについて、大島氏の経験から導き出した意見を述べる内容だった。
魅力を磨くといえば自分の長所を出してゆくことだ、と考えるかもしれないが、じつは組織や集団に入って知ることは、自分がいかにダメな人間かということである。
私の持論で言えば、人生とは自己の可能性の発見ではなく、不可能性の発見なのである。自分は何ができないのかを、まず自覚することによって、自分のできることを探す。それを探り当てることができれば、今度はそれを意識的にやろう、と頑張るから、最終的に魅力が出てくるのだと私はおもう。

「人生は不可能性の発見」『理屈はいい こういう人間が愚かなんだ』収録(大島渚著/青春出版社)P73より
出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4413070178
このくだりは衝撃だった。何かを頑張ってもできないのは、自分の努力不足であり、諦めることは悪だと思っている節さえあったのだ。悪だと思いながらもできないことだらけで苦しんでいた私には、救いのようにさえ思えた。
「できないことはできないと認めて、次にできることを探せばいいのか…!」


「人間には無限の可能性がある」だとか、「何事も諦めず、粘り強く続けることが大事」だというような言説が、あらゆる場面で強く唱えられていた昭和60年、件の随筆は学校教育の場にふさわしくないと、担任教師か誰かが判断したのだろう。全員でざっと音読をするのみで、以後授業で触れられることはなかったが、私の心には強く残った。

「できないことはできないと認めてもいい」

この思いが逆に、新しいことに挑戦する際の恐怖心を薄れさせてくれた。できなければ次に行けばいい、可能性探しは消去法でもいいのだ、と。そして、できないことや諦めることが悪ではないのなら、非凡さでの形勢逆転を図ることは、さして必要ないのかもしれない、とも思えてきた。(とはいえ、あっさり手放せたわけではないのだが。詳細は次回に)

何十年も“不可能性の発見”を繰り返し、挫折も散々味わいつつ、「文章を書くこと」が手元に残った。そこからライターが生業になるに至るまでの話は、過日『LITALICO仕事ナビ』に寄稿したのでご覧いただければお分かりになるだろうが、私のトライ&エラーは華々しいものでは全くない。しかし、「やはり、可能性探しは消去法でも悪くない」という実感があるから、私は今後も“不可能性の発見”を続けていくだろう。
「自分には才能なんてない」自己肯定感低め人間に贈る”イカダ下り”型キャリア形成のススメ
https://snabi.jp/article/182

育ちゆく息子に、「凡庸な発達障害者」である私が願うこと

ところで、昨年春に復学した小学4年生の息子だが、近頃また登校したり休んだりを繰り返している。学齢や、本人の成長につれて問題となることも変化しており、壁にぶつかるたびに苦心する息子を、学校の先生方やかかりつけ医の協力を得て、どうにかこうにか私なりに支えている。

とはいえ、「できないこと」があったら、まずは方法を変えてみて、それがだめならタイミングを変えてみる。何度試してもだめなら、「できなくても困らない方法」を考える――これらのトライ&エラーのパターンを、私が教えずとも息子が自ら繰り返しており、支えるというよりも「がんばっておるのだな」と眺めている、という表現が正しかろう。彼は自身の経験から、「不可能性の発見」を体得しているのだろう。

この先、息子はなにがしか特別な才能を発揮するかもしれないが、もちろん私と同じく、発達障害のある凡庸な人間として生きるのかもしれない。はっきり言って、どっちでもいい。天候ひとつで体調を崩すなどアップダウンを繰り返す私が、彼の見本になれるとは思えない。それでも、「発達障害と特別な才能を併せ持っていなくたって、こんなにヘラヘラ生きている大人もいるんだし、凡庸って悪くないな」なんてことを感じてくれたら嬉しい。反面教師になってしまう可能性もあるが、それでもいい。

息子が自分という存在を受容し、肯定できさえすれば。私は息子の存在を、全力で肯定する。

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