体を壊しても求めた高学歴、でも就職失敗――将来のために私に必要だったのは「得意を活かし苦手を避ける」選択肢だった

ライター:宇樹義子
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現在40歳、高機能自閉症のある私。ティーンエイジャーだった30年ほど前の私は、いつも学校の成績が良かったためか両親から期待を受けました。高校になると、当然のようにいわゆる難関大学を受験することに。必死の勉強で希望の大学には合格しましたが、長期にわたる過労で心身の調子を崩してしまい、大学時代は勉強どころではありませんでした。

その後30歳を過ぎて発達障害の診断を受け、「もっと私に合った進学のありかたがあったのでは」と考えるに至りました。私の考えたことを記しておきたいと思います。

「得意」を活かしやすい進学を

これは私自身を顧みて思うことなのですが、発達障害者には、現在の日本社会でスタンダードな「大学新卒一括採用」にはあまり向いていない人が多いのではないでしょうか。

大学新卒一括採用では、出身大学名によって志望書類をふるいにかけている企業もあるようです。このため、大学新卒一括採用での就職を考えた場合、なるべく「偏差値の高い大学」に行くのが有利に扱われる条件のようにも見えます。
※こうした現状が正しいと思っているわけではありません。学歴で人をふるいにかけるなど、本来あってはならないことです。

しかし、私の場合、「大学名のおかげで書類は通るが、軒並み面接で落とされる」という事態に陥りました。同大学のほかの学生がどんどん内定をとっていく中、私はいつまでも内定がとれない。ここには私の発達障害の特性のうち、コミュニケーションの不得手さや、一般的な感覚から見たときに理屈っぽすぎるなどのことが関わっていたように思います。

ここは逆に考えれば、「私の場合、学歴にこだわる必要はなかった」とも言えると感じます。新卒一括採用に強い「高い学歴」を得ることを目指すよりも、本人の特性に合った分野で経験を積んでいける道につながる進学先を選んだほうがよかったのかもしれません。

私が大学入学や新卒採用の時点で心身ともに参ってしまい、再び「いかに働いていくか」を考えられるようになるまで10年以上の大きな回り道をしたことを思うと、「偏差値の高い大学」にこだわらないルートを探したほうが近道だったかもしれないなあ…と思うのです。

発達障害児の場合、早めに本人の得意や興味に合った業界の仕事に出合い、実地で社会適応に近づいていって自信をつけていくことも大事なのかもしれません。進学で高学歴を獲得することを目指すよりも、本人の得意に合った、「手に職」がつけられる道筋を探すのも手だと思います。

「手に職」の道筋の例としては、専門学校、職業訓練校、海外のものも含めた通信制大学、専門筋への弟子入りなどが挙げられます。私自身、発達障害を自覚したあと、鍼灸マッサージ師になるための専門学校に通ったことがあります(実家を出ることになって通えなくなり、泣く泣く退学しましたが)。

最近はじわじわと新卒一括採用の価値観が見直されつつあるようですね。特に現在のコロナ禍のあと、学年によって人を区切る考え方が薄まっていくこと、こうした動き全体が加速していくことが考えられます。学歴にこだわる必要性は徐々に低くなっていると考えられるので、こうした動向を見据えておくことも大切なのではと思います。

「苦手」を避けやすい進学を

進路を決めるにあたって本人の「得意」を生かすことを考えるのも大事ですが、「苦手」を避けることも想像以上に大事です。本人の特性上、どういう環境の学校なら通いやすいのか(家からの距離、使う交通機関、キャンパスの環境など)も考慮して進学先を決めるとよいのではと思います。

たとえば私の場合、鉄筋コンクリートのビルにある専門学校は聴覚過敏の面でものすごくきつかったですし、都内の騒がしいところにあり、通学のために長時間混んだ電車に乗らなければいけない大学も体力的に厳しいものがありました。

学校を選ぶ際、学ぶ内容も大事ですが、発達障害児にとっては学ぶ環境もより重要かもしれません。最優先にすべきは「続けることができ、修了できること」なのではと思います。

通学自体が難しいなどの場合、無理せず通信制を選んでいいと思います。非常にレベルの高い講師やシステムを実現している学校もあります。個人的には「放送大学」が非常におすすめです。もともと通信制を前提として作られた大学で、学費も安価です。学んでみたい分野のコースが設置されていないか、一度確認してみてもいいと思います。

今は世界中のレベルの高い大学の授業をオンラインかつ無料で受講できる環境も整いつつあります。学歴や学位にこだわらず学ぶだけであればいくらでも学べます。場合によっては、このような授業で自分の興味範囲を探求しながら、仕事に必要な資格取得を目指したりする方法もあります。

日本の場合もうひとつ大事だと私が考えているのが、「文系理系の枠組みで進路を考えるのをやめてみる」ことです。

私は、理系科目が大好きだったのに、数学ができなかったため理系の進路を諦める必要がありました。日本の文理区分は大学受験時の科目に数学を使うかどうかで単純に二分されている感があります。しかし実際、文系と考えられている心理学では統計の心得が必要ですし、哲学にも実は数学の素養が必要だったりします。理系は理系で、論文を書くのに文章を書く力が求められたりもします。

最近は「学際分野」といって、かつての文理の壁を越えるような新しい区分が広がりつつあります。こうした動きを見逃さないでいる必要があるのではと思います。また、進学以外で希望の道に進む小道が見つかることもあるので、常に広くアンテナを張り、情報収集をしておくのもよいでしょう。

大事なのは、本人が文系なのか理系なのかではなく、「どこに行けば本人の力を最大に引き出し、苦手を避けられるか」だと私は考えています。この意味から言うと、早めに知能検査を受けて、苦手と得意、そのしくみについて知っておくことも有用なのではと思います。

親世代の常識での「良かれ」ではなく、現在の本人の実情に沿った選択を

私が子どもだった当時は、親も私本人もまったく発達障害のことを知らなかったため、的はずれな無理を重ねてしまったところがあると感じています。

私はティーンエイジャーの頃、言葉にできない漠然とした生きづらさを抱えながら、「自分はできるだけ偏差値の高い大学に行ってできるだけ良い有名企業に入ってエリートにならなければ」というプレッシャーに押しつぶされそうになっていました。周囲の意見をなんでも鵜呑みにしてしまう特性もこれに拍車をかけていたように思います。

高3のとき過労で血尿血便を出して1ヶ月ぐらい寝込んだことがありますし、ストレスから希死念慮にさいなまれ、自傷や摂食障害の傾向にも苦労しました。

四年制大学で学んだ一般教養やアカデミックなものの考え方は役には立ちました。こうした教養は、いま私が従事している、物を書く仕事にも非常に役立っています。しかし、いわゆる一般的な「社会適応」の面を重視するなら、手に職をつけるような専門学校に行ったほうがよかったのだろうなと思ったりします。

「教養」と「社会適応」のバランスをいかに取るかは、十分な情報をもとに、本人が慎重かつ自由に選択するべきだと思います。私の場合、今は結果的に幸せに生きていますが、当時、情報が少ない中で慌てて「教養」ばかりを選ばざるをえなかった自分の過去には後悔があります。

発達障害児の親御さんにはぜひ、自分の世代の常識や「良かれ」ではなく、「現在の本人の実情」に沿った選択をサポートしていただければと思います。
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