ASD当事者であり支援者。自身の特性をオープンに「生きやすく生きる」を支援――公認心理師・難波寿和さん【連載】すてきなミドルエイジを目指して

ライター:姫野桂
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思春期・青年期の発達障害の若者に向けて、ミドルエイジの先輩たちの多様な生き方・働き方を紹介する連載企画。第4回は臨床発達心理士・公認心理師の難波寿和さんのインタビューです。発達の凸凹のある子ども・家族・成人の支援に携わる難波さん自身も、ASD当事者です。対人支援の仕事に携わる上での特性理解や工夫についてお聞きしました。

ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー難波寿和さん

島根県を拠点に、フリーランスの臨床発達心理士・公認心理師として働く難波寿和さん。子どもから大人まで、発達障害がある人のカウンセリングや療育に携わっています。そんな難波さんは、ASDの当事者でもあります。当事者が当事者を支援する中で感じることについて、難波さんのこれまでの歩みと共にお聞きしました。

いい関係を築きたいのに、うまくいかない。「問題児」扱いされた幼少期

――難波さんは、「臨床発達心理士」の資格をお持ちですよね。臨床発達心理士の仕事は、どのような内容なのでしょうか?

難波寿和さん(以下、難波):臨床発達心理士は、発達心理学をベースに、子どもから大人までの成長・発達をサポートする仕事です。発達障害のある人だけでなく、幅広い人が対象となります。

具体的な仕事内容としては、発達障害のあるお子さんの療育に関わったり、大人の発達障害当事者の方のカウンセリングをしたりしています。昨年、新たに国家資格として定められた「公認心理師」の資格も取得しました。
公認心理師の資格も取得した難波さん
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――難波さんは幼い頃、どんな子どもでしたか?

難波: 家の中ではやんちゃでしたが、母と離れることへの不安が強かったですね。喘息の症状緩和のために、3歳ぐらいからスイミングに通っていたのですが、そこで母親から強制的に引き剥がされたのが嫌で、母子分離不安になってギャンギャン泣いていました。感覚過敏もあり、母親以外に抱きかかえられると、嫌で噛みついたりもしていましたね。4歳から入った保育園でも、母はいつ迎えに来てくれるのだろうかとずっと不安に感じていました。

――お母さんから離れることへの不安は、小学生でも続いたのでしょうか。

難波:いえ、小学生からは、学校へ行くことの不安に変わっていったと思います。授業などの細かいスケジュールの変更や、何分後に何が起きるかわからない行事が苦痛でした。先の見通しが立たないので、トイレに行くタイミングがわからず、授業中に漏らしてしまうこともありました。

感覚過敏だけでなく、感覚鈍麻もあって、僕は今でも便意がギリギリまでわからないことが多いんです。小学2年生のときに、トイレは休み時間のうちに必ず行っておく、授業中に行きたくなったら「トイレに行きたいです」と言えばどうにかなる、ということに気づき、それでなんとか漏らさずにすむようになりました。

――そうだったんですね。他にも、学校生活で何か困ることはありましたか?

難波: 落ち着きもなく、忘れ物もひどかったです。ほとんど毎教科で何かしら忘れ物をしていました。授業では、先生の話を記憶しようとした瞬間に、もう次の話に移っているので、なんの話をしているのかが全然わからなくって。1年生の時点で遅れをとっていました。

友人関係も、いい関係を築きたいというイメージはありましたが、うまくいきませんでしたね。保護者会が僕の話題でもちきりになるぐらい、問題のある行動をしてしまっていて……。例えば、友人に暴言を吐いたりとか。それでいじめられるようになりました。

僕もひどいことを言いたいわけじゃなかったんです。でも、そうしないと友達が自分のほうを向いてくれなかった。学校の先生は、「人の気持ちを考えなさい」と言いましたが、具体的にどうしたらいいかは教えてくれなかったので、どうすることもできませんでした。そのころは、全部人のせいにしていましたね。学校が悪い、先生が悪い、いじめる友達が悪いという考え方でした。

――そんなとき、幼少期の難波さんにとって安心できる存在だったお母さんは、どのような対応をされたのでしょうか。

難波: 母親は、「とにかく生きとりゃいい」「死ななかったらなんとかなるわ」みたいな考え方で(笑)。具体的な対処法は教えてくれませんでしたが、小学校6年生ぐらいまで、僕が帰ると膝の上で30分ぐらい話を聞いてくれました。「こんなことした」「あんなことされた」と泣きながら話すと、「おう、いけんかったなあ」とただただ慰めて支えてくれたのを覚えています。

友達を模倣することでなんとか切り抜けてきた

難波:僕、小学校の卒業式のときに、「僕は生まれ変わるんだ」と決めたんですよ。小学生のときの記憶に全部蓋をして、もう何も言わない、何も感じないようにするんだ、と。その決意の通りに中学校では比較的おとなしく過ごし、一緒に遊べる他の小学校出身の友達もできました。その一方で、乱暴に振る舞う人をコミュニケーションのお手本にしてしまうなど、まだまだうまくいかないこともありました。

授業は黙って座っていれば問題ないことに気づき、耳も慣れてきて、小学生のころよりは聞けるようになりましたね。塾にも通って、成績は中の下ぐらいまでには、なんとかもちなおして。きちんと出席していたこともあって、推薦入試を受けることができ、全寮制の高校に進学しました。
小学生時代を振り返る難波さん
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――寮ということは集団生活になるかと思いますが、その点は苦ではありませんでしたか?

難波: むしろ、いろんなモデルがいて、いい模倣の場になりましたね。僕はこれまで、「この人をコピーする」と決めた人の話し方や動き方を模倣して学び、問題行動を修正して切り抜けてきたんです。寮生活では、他の人の掃除や洗濯、勉強の方法を模倣し、学ぶことができました。

でも、この学習スタイルには問題があって。理屈がわからないまま覚え、そのまま真似しているから、応用がきかないんです。だから、学校でのテストでは90点取れるのに、模試になると数学2点、のようなことが起きていました(笑)。

――応用がきかないという点、すごく共感します。高校生は進路を考える時期でもありますよね。難波さんは「モテたい」という理由で心理職を目指したと小耳に挟みました。

難波: そうなんです。当時やっていたドラマを見て、「カウンセラーってモテそうだな」と思った、という不純な動機でした(笑)。

一応、他の理由として「自分はなんでこんな変な生き方をしているんだろう?」と思ったこともあります。自分から関わりに行っても、なぜ人が離れていってしまうのか知りたくて、勉強したらわかるかなあと思い、岡山にある大学の心理系学部に進みました。

――実際に大学で心理学を勉強してみて、いかがでしたか?

難波: 全然楽しくなかったし、「これ、モテるのか!?」と思いました。ユングとかフロイトとか、いろいろ勉強しましたが、もう言葉の意味や解釈がわからないし、なぜそんな心の動きになるのかもわからない。基礎心理学の方面に行こうかとも思いましたが、数学が苦手なので統計学ができず、それもあきらめました。 

そんなとき出会ったのが、発達障害のある子どもたちでした。大学3年生から4年生ぐらいのころですね。はじめはうまく関わりが持てず、「なんだこの子たちは!」と衝撃を受けました。でも、関わっていくなかで「僕と似ているじゃないか」と感じるようにもなったんです。言うことも聞かないし話も通じない、幼少期の僕にそっくりでした。「自分でも、力になれるのではないか」と感じて。そこから、障害のある人たちを支援する職へ就こうかなと考え始めました。ここだけは、まともな動機でした(笑)。
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