モデル・金子エミさん取材!ダウン症の息子・カイトさんが世界ダウン症水泳選手権 で3つのアジア記録を更新!ポジティブな声かけで培かわれた自信が「強さ」の背景に
ライター:発達ナビ編集部
パーツモデル・美容家として活躍する金子エミさん。長男のカイトさんはダウン症のあるスイマーとして、世界チャンピオンを目指しています。世界の舞台で活躍する度胸、強さはどうやって育まれたのか、金子エミさんにLITALICO発達ナビ編集長・牟田暁子がインタビュー。「ポジティブな声かけで育てる大切さ」について教えていただきました。
息子の笑顔を見たときに、「この子を大切に育てていこう」と思った
パーツモデル・美容家として活躍する金子エミさんの長男カイトさんは、ダウン症のあるスイマーとして、世界チャンピオンを目指しています。世界の舞台で活躍する度胸、強さはどうやって育まれたのか、金子エミさんにLITALICO発達ナビ編集長が聞きました。
発達ナビ編集長(以下――)カイトさんが生まれたときのことから、聞かせてください。カイトさんにダウン症があると分かったのはいつでしたか?
金子エミさん(以下、金子) 生まれてすぐに気づきました。顔を見たときにハッとしたんです。席がよく隣同士だった小学校の同級生にそっくりだったんです。彼にはダウン症がありました。ショックというよりも、「なんで!?」と、ずっと考えていました。看護師さんに聞くと、「顔立ちだけでは分からない」と言われましたが、そのときの対応が焦っているような、ドキッとしているような感じに見えたから、やはりそうなんだろうなと思っていました。
――金子さんがご自分について書かれた本などを読むと、初めからかなりポジティブにとらえられている感じがしましたが、実際にはどうでしたか?
金子:彼にダウン症があることについて受け入れたのは、早いほうだったとは思います。だけど、1ヶ月くらいは(カイトの)鎖肛(※)の手術などもあって入院していましたから、もう日付とか時間とかよく分からない感じで過ごしていました。私が先に退院したので、とにかく母乳を絞って冷凍して、病院にせっせと届ける日々でした。その当時は、パーツモデルの仕事も今後はできないだろうと思っていましたから、手肌を気遣うこともなく普通に家事をして、手は荒れ放題でした。
※鎖肛とは:生まれつき肛門がうまくつくられなかった病気
―そこからどういうきっかけで、子育てもご自分のキャリアも両立しようと思われたのですか?
金子:当時のマネージャーに、「ダウン症のある子が生まれたから、たぶんもうモデルの仕事はできないと思う」と打ち明けたんですね。そうしたら、彼女には身内にダウン症のある人がいたようで、「ダウン症の子、普通よ~?」と言ったんです。私は「何言ってるの?障害がある子の子育てとモデルの仕事の両立なんて無理じゃない?」と思っていたんですが、「辞めるのはいつでもできるから」と説得されました。それでとりあえず事務所に籍は置いておくことにしたんです。
カイトのことを受け入れられたきっかけは、彼の笑顔でした。とにかく笑うんですよ。おとなしい子で、いつもソファのすみの定位置に座ってニコニコ笑っているんです。その笑顔が「かわいいー!」と思ったんです、心から。それが生後半年くらいのころ。そのときに、この笑顔に支えられている自分を感じたし、大切に育てていこうと決意しました。
ちょうどそのころ、「そろそろ仕事復帰してみる?」という話がちらほらくるようになったタイミングでした。そして、カメラの「カシャッ」というシャッターの音を聞いたときに、ああ、やっぱりこの撮影の現場がたまらなく好きだ、やっぱり私、モデルの仕事したい、と思ったんです。仕事をしたいという気持ちと同時に、カイトの親であることを理由に何かをあきらめるということは、一つもつくりたくないと思ったんです。私がやりたいことは全部やってやろうと。それで保育園に入れる覚悟をして、仕事に復帰しました。
――それでも、お子さんが小さいころは、両立は大変ではなかったですか?
金子:大変でしたよ。余裕はまったくなくて、次から次へとやることがあって、キッチンで泣いたこともあります。「だれかごはんつくってー!だれかー!」って。ただ、仕事・育児・家事と分けて考えてはいなかったですね。すべて私のやるべきこと、一つの道としてシンプルに考えていました。目の前にあることをとにかく必死にやり切る毎日だったので、細かいことはもう覚えていないのですが。
金子エミさん(以下、金子) 生まれてすぐに気づきました。顔を見たときにハッとしたんです。席がよく隣同士だった小学校の同級生にそっくりだったんです。彼にはダウン症がありました。ショックというよりも、「なんで!?」と、ずっと考えていました。看護師さんに聞くと、「顔立ちだけでは分からない」と言われましたが、そのときの対応が焦っているような、ドキッとしているような感じに見えたから、やはりそうなんだろうなと思っていました。
――金子さんがご自分について書かれた本などを読むと、初めからかなりポジティブにとらえられている感じがしましたが、実際にはどうでしたか?
金子:彼にダウン症があることについて受け入れたのは、早いほうだったとは思います。だけど、1ヶ月くらいは(カイトの)鎖肛(※)の手術などもあって入院していましたから、もう日付とか時間とかよく分からない感じで過ごしていました。私が先に退院したので、とにかく母乳を絞って冷凍して、病院にせっせと届ける日々でした。その当時は、パーツモデルの仕事も今後はできないだろうと思っていましたから、手肌を気遣うこともなく普通に家事をして、手は荒れ放題でした。
※鎖肛とは:生まれつき肛門がうまくつくられなかった病気
―そこからどういうきっかけで、子育てもご自分のキャリアも両立しようと思われたのですか?
金子:当時のマネージャーに、「ダウン症のある子が生まれたから、たぶんもうモデルの仕事はできないと思う」と打ち明けたんですね。そうしたら、彼女には身内にダウン症のある人がいたようで、「ダウン症の子、普通よ~?」と言ったんです。私は「何言ってるの?障害がある子の子育てとモデルの仕事の両立なんて無理じゃない?」と思っていたんですが、「辞めるのはいつでもできるから」と説得されました。それでとりあえず事務所に籍は置いておくことにしたんです。
カイトのことを受け入れられたきっかけは、彼の笑顔でした。とにかく笑うんですよ。おとなしい子で、いつもソファのすみの定位置に座ってニコニコ笑っているんです。その笑顔が「かわいいー!」と思ったんです、心から。それが生後半年くらいのころ。そのときに、この笑顔に支えられている自分を感じたし、大切に育てていこうと決意しました。
ちょうどそのころ、「そろそろ仕事復帰してみる?」という話がちらほらくるようになったタイミングでした。そして、カメラの「カシャッ」というシャッターの音を聞いたときに、ああ、やっぱりこの撮影の現場がたまらなく好きだ、やっぱり私、モデルの仕事したい、と思ったんです。仕事をしたいという気持ちと同時に、カイトの親であることを理由に何かをあきらめるということは、一つもつくりたくないと思ったんです。私がやりたいことは全部やってやろうと。それで保育園に入れる覚悟をして、仕事に復帰しました。
――それでも、お子さんが小さいころは、両立は大変ではなかったですか?
金子:大変でしたよ。余裕はまったくなくて、次から次へとやることがあって、キッチンで泣いたこともあります。「だれかごはんつくってー!だれかー!」って。ただ、仕事・育児・家事と分けて考えてはいなかったですね。すべて私のやるべきこと、一つの道としてシンプルに考えていました。目の前にあることをとにかく必死にやり切る毎日だったので、細かいことはもう覚えていないのですが。
「得意なもの探し」をするよりも、息子のことをとにかくよく見て育てた
――ところで、カイトさんは小さいころから運動が得意だったんですか?
金子:全然!陸の運動は苦手なんですよ、走るのも体育の授業も嫌い。水泳だけがたまたま好きだったんです。
――水泳に出合うまで、彼の得意なことや好きな物を特に探したりしましたか?
金子:好きなことや一生懸命やりたがることが何なのかは、よく見ていましたが、何かをさせてみるということはなかったです。カイトはどちらかというと、絵や字を書いたりすることが好きで、泳いでいるとき以外は、じっとしているような子なんです。でも、小さいころから水がとても好きで、ちょっと目を離すとお風呂に直行しちゃうような子でした。危ないのでお風呂場には水をためないように気をつけていたくらい。とにかく水が好きなんだなと思っていました。
――最初に通われたスイミングクラブでは障害児向けのクラスがあったんですか?
金子:当時はインターネットの情報なんてないから、電話して問い合わせました。そこでは表立って障害児向けクラスを設けていたわけではなかったんですが、ダウン症のある子が通っていたんですよ。それで聞いてみた。11歳のときでした。
そのときにも先生から、「この子はお水が好きだから、頑張って通わせてね」と言われたのですが、当時は私も仕事に復帰していたので、週1回からまずは通わせ始めました。中学校1~2年のころには週3回通うようになりました。
――選手になれるかもと思ったのは、いつごろから?
金子:私自身は一度もそういうことを思ったことがなくて。先生から、「東京都障害者スポーツ競技大会があるけど出てみる?」と聞かれて、「え?出られるんですか?」という感じでした。13歳から日本選手権に出られるから、まずは東京都の大会からということに。ダウン症だけでなく自閉スペクトラム症のある子どももいる知的障害者のS-14のクラスに出場しました。水泳は、そもそも彼がやっていて楽しくて、健康のためにということがいちばんの目的だったので、選手なんてまさか想像もしませんでした。
――よく見て、認めて、カイトくんが好きなことをと思ったことがつながったんでしょうね。
金子:全然!陸の運動は苦手なんですよ、走るのも体育の授業も嫌い。水泳だけがたまたま好きだったんです。
――水泳に出合うまで、彼の得意なことや好きな物を特に探したりしましたか?
金子:好きなことや一生懸命やりたがることが何なのかは、よく見ていましたが、何かをさせてみるということはなかったです。カイトはどちらかというと、絵や字を書いたりすることが好きで、泳いでいるとき以外は、じっとしているような子なんです。でも、小さいころから水がとても好きで、ちょっと目を離すとお風呂に直行しちゃうような子でした。危ないのでお風呂場には水をためないように気をつけていたくらい。とにかく水が好きなんだなと思っていました。
――最初に通われたスイミングクラブでは障害児向けのクラスがあったんですか?
金子:当時はインターネットの情報なんてないから、電話して問い合わせました。そこでは表立って障害児向けクラスを設けていたわけではなかったんですが、ダウン症のある子が通っていたんですよ。それで聞いてみた。11歳のときでした。
そのときにも先生から、「この子はお水が好きだから、頑張って通わせてね」と言われたのですが、当時は私も仕事に復帰していたので、週1回からまずは通わせ始めました。中学校1~2年のころには週3回通うようになりました。
――選手になれるかもと思ったのは、いつごろから?
金子:私自身は一度もそういうことを思ったことがなくて。先生から、「東京都障害者スポーツ競技大会があるけど出てみる?」と聞かれて、「え?出られるんですか?」という感じでした。13歳から日本選手権に出られるから、まずは東京都の大会からということに。ダウン症だけでなく自閉スペクトラム症のある子どももいる知的障害者のS-14のクラスに出場しました。水泳は、そもそも彼がやっていて楽しくて、健康のためにということがいちばんの目的だったので、選手なんてまさか想像もしませんでした。
――よく見て、認めて、カイトくんが好きなことをと思ったことがつながったんでしょうね。
つらいことを楽しく乗り越えさせてくれるコーチとの出会い
――子ども自身をよく見ること、ポジティブな言葉をかけること、とても大事だなと私も思っています。
金子:ポジティブな言葉の声かけは、カイトが小さいときから大切にしてきました。彼の場合、覚えられる言葉というのが限られているので。だから、汚い言葉、ネガティブな言葉を彼にかけたことは一回もありません。たとえば、嫌いな食べ物についても、「これを食べると強くなるよ」と言います。「これを食べないと××になっちゃうよ」というネガティブな言い方はしてこなかったですね。
今、彼は死に物狂いで泳いでトレーニングを積んでいるんです。精神的にもかなり追い込まれているので、ネガティブな否定形の脅し文句のようなことばを言われてしまうと、折れちゃいそう。試合前に「そういう泳ぎしていたら負けるぞ!」なんて言われると、やめてー!って思います。
――うちに来てくれるヘルパーさんの中に、海外からいらっしゃった方がいて。彼女とても明るくてかける言葉がすべてポジティブ。娘が座り込んで歩かなかったりすると「大丈夫!●●ちゃんはできるよ!」と、ちょっと強引かも?という調子で励ましてくれるのですが、そんなふうに娘ができると信じ切ってポジティブに励ましてくれると、実際それで歩けたりするんですよね。
金子:ほんとそういうことが大事!カイトの専属のコーチはアメリカで勉強してきた先生で、すごくポジティブで、ネガティブなことは一切言いません。だけど、練習はとっても厳しいんですよ。1日に2回練習するときは3,500~5,000mといったすごい距離を、パーソナル練習では息継ぎもほとんどさせずにがんがん泳がせる。つらいことを、こんなに楽しく超えさせるということが素晴らしくて。「楽しく強くなろうな!」って言ってくれるんです。
――それにしてもすごい!5,000mですか!?
金子:通い始めたころは、カイトはそんな距離を泳ぐことはぜんぜんできなくて、練習についていけなかったんです。だから、続けられないかもと思っていたら、先生から「お母さん、仕事が忙しいかもしれないけれど、カイトは水と水泳が大好きだから、練習に来てもいいよ!」と言われたんです。
このコーチのところでは、初めは親も子どもと一緒にプールに入るのが条件。先生は一人で20人の選手を見ているので、指示したことが伝わらない可能性もあります。だから、「まずはお母さんがカイトに伝わる言葉で伝えて」と言われました。「僕はお母さんがどんな風にカイトに伝えているかを勉強するから。そこから、僕も何をどういえばカイトに伝わるか学びます」と言われたんです。
今は、4年目に入って、ようやく一対一のパーソナルトレーニングも始まりました。ここまでの3年、コーチとカイトの間に信頼関係を築く時間でした。それは、死ぬ気で泳がないとメダルは狙えないから。だから3年間、頑張って通いました。
――やっぱり世界に進出するって大変なことですね。そんなカイトさんとエミさんの関係は良好ですか?
金子:今ね、カイトに「リコンしたいです」って言われているんです(笑)。リコンということばの意味をよく分かっていないで言っているんですけど、要するにあまりにいつも一緒だから、少し離れたいということみたい。四六時中一緒にいますからね、水泳に行くときはもちろん一緒だし。私の仕事のときくらいですね、別行動は。仕事も今は以前ほどは入れていませんから、カイトと過ごす時間が長いんです。
一時期、カイトはB型支援作業所での仕事をしていたことがあったんですが、仕事とトレーニングの両立がきつくて、私としてもカイトには若い今しかできないことを優先してほしいと思ったので辞めることになりました。このことに関してはさまざまな考え方があるかと思いますが、少なくてもパリのパラリンピックまでは、この体制で四六時中一緒にいようと決めました。顔色を見て、食べ物の管理をして、全部見るつもりです。リコンしようとは言われますが、ほんとうに命が危ないくらいギリギリまでトレーニングしているので、体調の変化にも敏感でいたいので、とにかく今は一緒に行動しています。
金子:ポジティブな言葉の声かけは、カイトが小さいときから大切にしてきました。彼の場合、覚えられる言葉というのが限られているので。だから、汚い言葉、ネガティブな言葉を彼にかけたことは一回もありません。たとえば、嫌いな食べ物についても、「これを食べると強くなるよ」と言います。「これを食べないと××になっちゃうよ」というネガティブな言い方はしてこなかったですね。
今、彼は死に物狂いで泳いでトレーニングを積んでいるんです。精神的にもかなり追い込まれているので、ネガティブな否定形の脅し文句のようなことばを言われてしまうと、折れちゃいそう。試合前に「そういう泳ぎしていたら負けるぞ!」なんて言われると、やめてー!って思います。
――うちに来てくれるヘルパーさんの中に、海外からいらっしゃった方がいて。彼女とても明るくてかける言葉がすべてポジティブ。娘が座り込んで歩かなかったりすると「大丈夫!●●ちゃんはできるよ!」と、ちょっと強引かも?という調子で励ましてくれるのですが、そんなふうに娘ができると信じ切ってポジティブに励ましてくれると、実際それで歩けたりするんですよね。
金子:ほんとそういうことが大事!カイトの専属のコーチはアメリカで勉強してきた先生で、すごくポジティブで、ネガティブなことは一切言いません。だけど、練習はとっても厳しいんですよ。1日に2回練習するときは3,500~5,000mといったすごい距離を、パーソナル練習では息継ぎもほとんどさせずにがんがん泳がせる。つらいことを、こんなに楽しく超えさせるということが素晴らしくて。「楽しく強くなろうな!」って言ってくれるんです。
――それにしてもすごい!5,000mですか!?
金子:通い始めたころは、カイトはそんな距離を泳ぐことはぜんぜんできなくて、練習についていけなかったんです。だから、続けられないかもと思っていたら、先生から「お母さん、仕事が忙しいかもしれないけれど、カイトは水と水泳が大好きだから、練習に来てもいいよ!」と言われたんです。
このコーチのところでは、初めは親も子どもと一緒にプールに入るのが条件。先生は一人で20人の選手を見ているので、指示したことが伝わらない可能性もあります。だから、「まずはお母さんがカイトに伝わる言葉で伝えて」と言われました。「僕はお母さんがどんな風にカイトに伝えているかを勉強するから。そこから、僕も何をどういえばカイトに伝わるか学びます」と言われたんです。
今は、4年目に入って、ようやく一対一のパーソナルトレーニングも始まりました。ここまでの3年、コーチとカイトの間に信頼関係を築く時間でした。それは、死ぬ気で泳がないとメダルは狙えないから。だから3年間、頑張って通いました。
――やっぱり世界に進出するって大変なことですね。そんなカイトさんとエミさんの関係は良好ですか?
金子:今ね、カイトに「リコンしたいです」って言われているんです(笑)。リコンということばの意味をよく分かっていないで言っているんですけど、要するにあまりにいつも一緒だから、少し離れたいということみたい。四六時中一緒にいますからね、水泳に行くときはもちろん一緒だし。私の仕事のときくらいですね、別行動は。仕事も今は以前ほどは入れていませんから、カイトと過ごす時間が長いんです。
一時期、カイトはB型支援作業所での仕事をしていたことがあったんですが、仕事とトレーニングの両立がきつくて、私としてもカイトには若い今しかできないことを優先してほしいと思ったので辞めることになりました。このことに関してはさまざまな考え方があるかと思いますが、少なくてもパリのパラリンピックまでは、この体制で四六時中一緒にいようと決めました。顔色を見て、食べ物の管理をして、全部見るつもりです。リコンしようとは言われますが、ほんとうに命が危ないくらいギリギリまでトレーニングしているので、体調の変化にも敏感でいたいので、とにかく今は一緒に行動しています。