緊急地震速報で動悸・めまい…震災トラウマを抱えた私が試した「安心感の育み方」【大人の発達障害】
ライター:宇樹義子
ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如多動症)、複雑性PTSDのある私。子どもの頃からとても怖がりだったうえ、大人になってから暮らす先々で大震災を経験。震災を思い起こさせるものに触れるとパニックを起こしていた時期が長くありました。今回はこうした、私と震災トラウマについてお話しします。
監修: 鈴木直光
筑波こどものこころクリニック院長
1959年東京都生まれ。1985年秋田大学医学部卒。在学中YMCAキャンプリーダーで初めて自閉症児に出会う。同年東京医科歯科大学小児科入局。
1987〜88年、瀬川小児神経学クリニックで自閉症と神経学を学び、栃木県県南健康福祉センターの発達相談で数々の発達障がい児と出会う。2011年、茨城県つくば市に筑波こどものこころクリニック開院。
私が極端な怖がりだった理由
私はもともと感覚過敏のせいで不安や恐怖を人一倍強く感じるタイプでした。そこへ、そうした不安や恐怖をケアしてもらえなかったり、叱責や嘲笑を受けたりしたこと、また、実際に危険な場面で守ってもらえない経験をしたことが、私の怖がり傾向を固着させたのだと、今は思っています。
よく覚えているのが、以下2つの出来事です。
よく覚えているのが、以下2つの出来事です。
守ってもらえなかったショック
私が幼稚園のときだったか、父と居間にいたら大きめの地震が来ました。震度は4くらいだったと思います。
父と私は近くに座っていたのですが、グラッときた瞬間、父は私を置いて、目の前のちゃぶ台をポーンと飛び越え、裸足のままタタキに飛び出して逃げていってしまったのです。そして、揺れがおさまってしばらくすると「あー怖かったぁ!」と言いながら戻ってきた。
スローモーな私は、当時すべてを呆気にとられて見ているしかできませんでした。でも、30歳を過ぎていまの夫と暮らし始め、地震が来た瞬間夫が私に覆いかぶさって守ろうとしたときに涙が出てきて、「私はあのとき父に守ってもらえずにショックだったのだ」と気づいたのです。
父と私は近くに座っていたのですが、グラッときた瞬間、父は私を置いて、目の前のちゃぶ台をポーンと飛び越え、裸足のままタタキに飛び出して逃げていってしまったのです。そして、揺れがおさまってしばらくすると「あー怖かったぁ!」と言いながら戻ってきた。
スローモーな私は、当時すべてを呆気にとられて見ているしかできませんでした。でも、30歳を過ぎていまの夫と暮らし始め、地震が来た瞬間夫が私に覆いかぶさって守ろうとしたときに涙が出てきて、「私はあのとき父に守ってもらえずにショックだったのだ」と気づいたのです。
1人だけ机の下に隠れて笑われた
小学校高学年のとき、授業中にそれほど大きくない地震が来たのですが、私は揺れ始めた瞬間にスポーンと机の下に隠れて身を縮めました。同級生の皆はそんな私を「ビビってバカみたい」と笑ったのです。それを見た担任の先生も一緒になって「宇樹さんは怖がりなんだから」と笑われたのが、とりわけモヤモヤしました。
私は当時すでに極端な不安傾向が固着していたし、「地震が来たら机の下に隠れましょう」と習っていたのでそのとおりにしたまでです。「皆と違う言動をすると奇異に思われるから、周囲の様子を見ながら本当に危険な地震かを見計らって動こう」という視点もなかった。こういうところは今思えば特性が出ていたなと感じます。
私は当時すでに極端な不安傾向が固着していたし、「地震が来たら机の下に隠れましょう」と習っていたのでそのとおりにしたまでです。「皆と違う言動をすると奇異に思われるから、周囲の様子を見ながら本当に危険な地震かを見計らって動こう」という視点もなかった。こういうところは今思えば特性が出ていたなと感じます。
実家で東日本大震災、行く先々で複数の震災に遭う
大人になり、31歳のとき、千葉県の実家で東日本大震災に遭いました。実家は震度6弱。
当時、私は母と2人暮らし。自分もすでに二次障害で調子の悪い中、母の心身のケアを一身に背負い、参っていたところへの震災は最後の一撃に。
実家も周囲の家も倒壊などの被害はありませんでしたが、物流は不安定になる、計画停電は来る、母は不穏になる、緊急地震速報は鳴る、海外赴任中の父に繰り返し助けを求めても突っぱねられる、などなど……完全にトラウマ的経験となってしまったのです。
家の中で24時間私のあとについて回り、トイレやお風呂、夜中3時の枕元にまで入ってこようとし、ひどい言葉を投げかけ、まったく話の通じなくなってしまった母。ある日母はついに暴れて、私は「このままでは母と私の命に関わる事態になる」と思い、現在の夫の助けを得て実家から逃げ出しました。
その当時の私は目の前のことで精いっぱい。福祉のこともまったく知らず、自分が助けてもらえる立場である可能性にも思いが及びませんでした。
夫に連れられて九州に転居したのですが、2016年にはそこで熊本地震の揺れを経験します。そのとき住んでいた地域の震度は5弱程度でしたが、緊急地震速報が鳴るたび、東日本大震災の記憶がフラッシュバックして激しい動悸や息切れなどを起こすように……。その後また転居するも、今度はそこでまた大震災を経験。
行く先々で震災を経験する過程で、「私は地震の恐怖から逃れられないんだ。どこへ行っても必ず震災に遭うんだ」という思い込みと、震災を想起させる刺激でパニック発作を起こすベースが完成することとなってしまいました。
当時、私は母と2人暮らし。自分もすでに二次障害で調子の悪い中、母の心身のケアを一身に背負い、参っていたところへの震災は最後の一撃に。
実家も周囲の家も倒壊などの被害はありませんでしたが、物流は不安定になる、計画停電は来る、母は不穏になる、緊急地震速報は鳴る、海外赴任中の父に繰り返し助けを求めても突っぱねられる、などなど……完全にトラウマ的経験となってしまったのです。
家の中で24時間私のあとについて回り、トイレやお風呂、夜中3時の枕元にまで入ってこようとし、ひどい言葉を投げかけ、まったく話の通じなくなってしまった母。ある日母はついに暴れて、私は「このままでは母と私の命に関わる事態になる」と思い、現在の夫の助けを得て実家から逃げ出しました。
その当時の私は目の前のことで精いっぱい。福祉のこともまったく知らず、自分が助けてもらえる立場である可能性にも思いが及びませんでした。
夫に連れられて九州に転居したのですが、2016年にはそこで熊本地震の揺れを経験します。そのとき住んでいた地域の震度は5弱程度でしたが、緊急地震速報が鳴るたび、東日本大震災の記憶がフラッシュバックして激しい動悸や息切れなどを起こすように……。その後また転居するも、今度はそこでまた大震災を経験。
行く先々で震災を経験する過程で、「私は地震の恐怖から逃れられないんだ。どこへ行っても必ず震災に遭うんだ」という思い込みと、震災を想起させる刺激でパニック発作を起こすベースが完成することとなってしまいました。
海辺に近寄れない、地下鉄に乗れない、リュックが背負えない
東日本大震災以来、私は海に近寄れないまま。遠出をするときには防災セットを持って出かけるし、緊急地震速報の音やそれに似た音で動悸と息切れを起こす状態が続き、この傾向は震災経験を繰り返すたびに強まっていくように思えました。
今年2026年の春、私は地下鉄を乗り継いだ先にあるB型の就労継続支援事業所に通い始めました。通い始めてから事業所のあるビルが旧耐震で、震災リスクの高い地域に建っていることを知ったあたりから、なんだか不穏な感じに……。
作業用のPCと、強化した防災セットを入れると、リュックは重くなります。地下鉄も「何かあったときに逃げにくい」イメージがあるから、もともと地上線よりも無意識の苦手感は強かった。それでも自分を奮い立たせて通っていたある夜、青森で大きな地震があり、翌朝早くには長野で中くらいの地震が起きたのです。
不安な自分をなだめながら朝食を食べ終わったところで、突然バクバクッと動悸感が起きました。「ああこれは胃酸の逆流だ、前もあったやつで、医者にも行って大丈夫だった。食道の不快感と心臓の感覚を誤認するやつだ。食後だしね」となんとか気をとりなおして無事事業所へ。
1日元気に作業して、さあ帰ろう、と地下鉄の駅へ向かっている途中、また動悸感、息切れ、そして今度はめまいが。食事からは何時間もたっている、おかしいな……と考えていて、「これはパニック発作だ!」と気づきました。
それきり、地下鉄に乗ろうとするとパニック発作を起こすようになり、通っていたB型事業所はやめざるをえませんでした。地下鉄どころか、B型事業所に通うときに背負っていたリュックを背負った瞬間に発作が出る。
症状が固着してしまわないよう、私は自分で調べて曝露プログラム(※)を組み、実践していくことにしました。
(※)認知行動療法のひとつ。不快な症状を惹起する対象にあえて繰り返し少しずつ身を晒し(曝露し)、「不安だったけど大丈夫だった」と確認することで症状を軽減していこうとするもの
今年2026年の春、私は地下鉄を乗り継いだ先にあるB型の就労継続支援事業所に通い始めました。通い始めてから事業所のあるビルが旧耐震で、震災リスクの高い地域に建っていることを知ったあたりから、なんだか不穏な感じに……。
作業用のPCと、強化した防災セットを入れると、リュックは重くなります。地下鉄も「何かあったときに逃げにくい」イメージがあるから、もともと地上線よりも無意識の苦手感は強かった。それでも自分を奮い立たせて通っていたある夜、青森で大きな地震があり、翌朝早くには長野で中くらいの地震が起きたのです。
不安な自分をなだめながら朝食を食べ終わったところで、突然バクバクッと動悸感が起きました。「ああこれは胃酸の逆流だ、前もあったやつで、医者にも行って大丈夫だった。食道の不快感と心臓の感覚を誤認するやつだ。食後だしね」となんとか気をとりなおして無事事業所へ。
1日元気に作業して、さあ帰ろう、と地下鉄の駅へ向かっている途中、また動悸感、息切れ、そして今度はめまいが。食事からは何時間もたっている、おかしいな……と考えていて、「これはパニック発作だ!」と気づきました。
それきり、地下鉄に乗ろうとするとパニック発作を起こすようになり、通っていたB型事業所はやめざるをえませんでした。地下鉄どころか、B型事業所に通うときに背負っていたリュックを背負った瞬間に発作が出る。
症状が固着してしまわないよう、私は自分で調べて曝露プログラム(※)を組み、実践していくことにしました。
(※)認知行動療法のひとつ。不快な症状を惹起する対象にあえて繰り返し少しずつ身を晒し(曝露し)、「不安だったけど大丈夫だった」と確認することで症状を軽減していこうとするもの
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曝露プログラムで小さな頃のトラウマが癒されてしまう
曝露プログラムは、ともかくスモールステップ、絶対に無理はしないこと、うまく進んでも1度に1ステップにとどめることが大事とのこと。私はこれを、「無理を強いられて育った自分を、自分で優しく育て直すこと」と理解しました。
「自分の育て直し」は、私がトラウマ治療の1ジャンルであるパーツワーク(※)でやってきたこと。そう思うと、曝露をしている最中に、頭の中で勝手にパーツワークのイメージが展開していくのです。
(※)心の中に複数の自分(パーツ)の存在を規定し、それに対してアプローチしていくもの
怖いよ、と泣いている心の中の小さな自分を、嘲笑したり叱咤激励したりすることなく、「うん、怖いよね、当然だよ」「でも大丈夫、私がそばにいるからね」などと優しく声をかける。
そんなことを続け、駅のベンチに座って「ホームで電車を見送る」曝露をしていたときのこと。突然頭の中で、若い父と母が赤ん坊の私を抱いて電車に乗り込む、パーツワークのイメージが展開したのです。
その後のイメージはこのように進みました。
—
私は大学生ぐらいの歳格好で、彼らのそばでつり革を持って立っています。
私が赤ん坊の私をニコニコして見ていると、父が「可愛いでしょう、僕の大事な妻が産んでくれた、世界一の娘なんだ」と話しかけてきます。母が真っ赤になって「ちょっとあなた、知らないお嬢さんにそんなこと!」などと小突きます。
電車が地下に入ると、赤ん坊の私が怖がって泣き出します。父は彼女を優しくゆすり、「怖いか? そうか。大丈夫、何があっても絶対にお父さんが守ってやるからな」と声をかけました。小さな私は徐々に泣きやみ、安心して眠ってしまいました。母はそんな2人を幸せそうに見つめています。
そのうち目的の駅に着いたようで、父と母は私に会釈して降りていきました。
—
駅のベンチに座っている現在の私も幸せで、しばらくぽろぽろ泣きました。
この日から私はすっかり「何もかも、きっと大丈夫」「だって私は守ってもらえてるから」という気持ちになり、それまで苦労していたさまざまな症状がほとんど消えてしまいました。
地下鉄にも乗れるし、緊急地震速報が鳴っても以前のように発作的な反応を起こさない。あっという間に症状が消し飛んだ劇的さも含め、とても印象的な出来事でした。
「自分の育て直し」は、私がトラウマ治療の1ジャンルであるパーツワーク(※)でやってきたこと。そう思うと、曝露をしている最中に、頭の中で勝手にパーツワークのイメージが展開していくのです。
(※)心の中に複数の自分(パーツ)の存在を規定し、それに対してアプローチしていくもの
怖いよ、と泣いている心の中の小さな自分を、嘲笑したり叱咤激励したりすることなく、「うん、怖いよね、当然だよ」「でも大丈夫、私がそばにいるからね」などと優しく声をかける。
そんなことを続け、駅のベンチに座って「ホームで電車を見送る」曝露をしていたときのこと。突然頭の中で、若い父と母が赤ん坊の私を抱いて電車に乗り込む、パーツワークのイメージが展開したのです。
その後のイメージはこのように進みました。
—
私は大学生ぐらいの歳格好で、彼らのそばでつり革を持って立っています。
私が赤ん坊の私をニコニコして見ていると、父が「可愛いでしょう、僕の大事な妻が産んでくれた、世界一の娘なんだ」と話しかけてきます。母が真っ赤になって「ちょっとあなた、知らないお嬢さんにそんなこと!」などと小突きます。
電車が地下に入ると、赤ん坊の私が怖がって泣き出します。父は彼女を優しくゆすり、「怖いか? そうか。大丈夫、何があっても絶対にお父さんが守ってやるからな」と声をかけました。小さな私は徐々に泣きやみ、安心して眠ってしまいました。母はそんな2人を幸せそうに見つめています。
そのうち目的の駅に着いたようで、父と母は私に会釈して降りていきました。
—
駅のベンチに座っている現在の私も幸せで、しばらくぽろぽろ泣きました。
この日から私はすっかり「何もかも、きっと大丈夫」「だって私は守ってもらえてるから」という気持ちになり、それまで苦労していたさまざまな症状がほとんど消えてしまいました。
地下鉄にも乗れるし、緊急地震速報が鳴っても以前のように発作的な反応を起こさない。あっという間に症状が消し飛んだ劇的さも含め、とても印象的な出来事でした。
不安がりの子どもに必要なこととは
私は上記の経験を経て、「『難治性の不安症や強迫症といった精神疾患の背景には、複雑なトラウマが関わっていることがある』という説はやっぱり本当だったのかもしれない」と思うようになりました。
人の中で辛い経験がトラウマとなるのは、「逃げることも戦うこともできず、助けも来なかったとき」だと言われています。私は上記で経験したイメージの中で、父から「大丈夫、絶対に助けてあげる」と確約してもらえたことによって、やっと幼い頃の「無力なうえ、誰にも守ってもらえなかった」トラウマが癒えたのですね。
不安がりの子どもの周囲の大人には、ぜひ本人の不安を否定せず受け止め、必ず守るという意志を伝え、ゆっくり時間をかけて本人が安心できるように導いてほしいです。
感覚過敏など、本人の特性によっては非常に不安が強いこともあり、対処に戸惑うこともあるかもしれません。でも、本人が少しずつでも、保護者の方の見守りの視線を内面に取り入れ、いつか不安や警戒を解除できる日が来たらいいな、と願っています。
宇樹義子/文
人の中で辛い経験がトラウマとなるのは、「逃げることも戦うこともできず、助けも来なかったとき」だと言われています。私は上記で経験したイメージの中で、父から「大丈夫、絶対に助けてあげる」と確約してもらえたことによって、やっと幼い頃の「無力なうえ、誰にも守ってもらえなかった」トラウマが癒えたのですね。
不安がりの子どもの周囲の大人には、ぜひ本人の不安を否定せず受け止め、必ず守るという意志を伝え、ゆっくり時間をかけて本人が安心できるように導いてほしいです。
感覚過敏など、本人の特性によっては非常に不安が強いこともあり、対処に戸惑うこともあるかもしれません。でも、本人が少しずつでも、保護者の方の見守りの視線を内面に取り入れ、いつか不安や警戒を解除できる日が来たらいいな、と願っています。
宇樹義子/文
専門家コメント 鈴木直光先生(小児科医)
ASDの方は感覚過敏があり、特に地震は突然来るので不安も大きくなりがちです。過敏なASDの方は緊急地震速報が鳴る前に既に地響きを感じるそうです。
上から物が落ちてくるのが不安なため車の中で半年以上生活していた方もいます。その方もまた地下鉄で通勤するのが困難になり、転職を余儀なくされています。
時が経っても感覚過敏やトラウマは残るため、自分自身の過ごしやすい方法や生活様式を見つけていかなければなりません。大勢乗る電車が嫌なら自家用車で、さらに狭い空間の自家用車が嫌なら徒歩で行ける働き場所を探すことになります。医療ではSSRIというお薬で多少不安を抑えることが可能です。(監修:小児科医 鈴木直光先生)
上から物が落ちてくるのが不安なため車の中で半年以上生活していた方もいます。その方もまた地下鉄で通勤するのが困難になり、転職を余儀なくされています。
時が経っても感覚過敏やトラウマは残るため、自分自身の過ごしやすい方法や生活様式を見つけていかなければなりません。大勢乗る電車が嫌なら自家用車で、さらに狭い空間の自家用車が嫌なら徒歩で行ける働き場所を探すことになります。医療ではSSRIというお薬で多少不安を抑えることが可能です。(監修:小児科医 鈴木直光先生)
(コラム内の障害名表記について)
コラム内では、現在一般的に使用される障害名・疾患名で表記をしていますが、2013年に公開された米国精神医学会が作成する、精神疾患・精神障害の分類マニュアルDSM-5などをもとに、日本小児神経学会などでは「障害」という表記ではなく、「~症」と表現されるようになりました。現在は下記の表現になっています。
神経発達症
発達障害の名称で呼ばれていましたが、現在は神経発達症と呼ばれるようになりました。
知的障害(知的発達症)、ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如多動症)、コミュニケーション症群、LD・SLD(限局性学習症)、チック症群、DCD(発達性協調運動症)、常同運動症が含まれます。
※発達障害者支援法において、発達障害の定義の中に知的発達症(知的能力障害)は含まれないため、神経発達症のほうが発達障害よりも広い概念になります。
ASD(自閉スペクトラム症)
自閉症、高機能自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー(Asperger)症候群などのいろいろな名称で呼ばれていたものがまとめて表現されるようになりました。ASDはAutism Spectrum Disorderの略。
ADHD(注意欠如多動症)
注意欠陥・多動性障害の名称で呼ばれていましたが、現在はADHD、注意欠如多動症と呼ばれるようになりました。ADHDはAttention-Deficit Hyperactivity Disorderの略。
ADHDはさらに、不注意優勢に存在するADHD、多動・衝動性優勢に存在するADHD、混合に存在するADHDと呼ばれるようになりました。今までの「ADHD~型」という表現はなくなりましたが、一部では現在も使われています。
コラム内では、現在一般的に使用される障害名・疾患名で表記をしていますが、2013年に公開された米国精神医学会が作成する、精神疾患・精神障害の分類マニュアルDSM-5などをもとに、日本小児神経学会などでは「障害」という表記ではなく、「~症」と表現されるようになりました。現在は下記の表現になっています。
神経発達症
発達障害の名称で呼ばれていましたが、現在は神経発達症と呼ばれるようになりました。
知的障害(知的発達症)、ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如多動症)、コミュニケーション症群、LD・SLD(限局性学習症)、チック症群、DCD(発達性協調運動症)、常同運動症が含まれます。
※発達障害者支援法において、発達障害の定義の中に知的発達症(知的能力障害)は含まれないため、神経発達症のほうが発達障害よりも広い概念になります。
ASD(自閉スペクトラム症)
自閉症、高機能自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー(Asperger)症候群などのいろいろな名称で呼ばれていたものがまとめて表現されるようになりました。ASDはAutism Spectrum Disorderの略。
ADHD(注意欠如多動症)
注意欠陥・多動性障害の名称で呼ばれていましたが、現在はADHD、注意欠如多動症と呼ばれるようになりました。ADHDはAttention-Deficit Hyperactivity Disorderの略。
ADHDはさらに、不注意優勢に存在するADHD、多動・衝動性優勢に存在するADHD、混合に存在するADHDと呼ばれるようになりました。今までの「ADHD~型」という表現はなくなりましたが、一部では現在も使われています。
発達支援施設を探してみませんか?
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小学生のころ学校からの帰り、鍵がなくて家に入れなかったことが度々ありました。その頃の体験が「恐怖」だったのかもしれないと思います。(違うかもしれません。)
私自身仕事の帰りが遅く、息子は野外で何時間も過ごさなくてはならない状況も経験しました。(学童保育は高学年になると入所が難しくなります。)
「仕事だから、生活のためには仕方がない」と、仕事を優先してしまったことを後悔しています。今はその仕事を辞めて、子どもたちの帰宅には自宅で迎えられるようにしています。
『怖かったときに守ってもらえなかった』という自覚が息子にあるかどうか分かりませんが、『怖いときには守ってもらえる大丈夫!』という経験を、今からでも意識していきたいと思います。
それで、このかたの経験が、乗り越えて良かったなと思えたり、どれほどの勇気だったんだろうと思えて、驚きました。
がんばられたんですね。
私は、トラウマとか、その人のインナーチャイルドは今の自分が守ってあげれると、自分が変化する話を聞いた事があります
私もそうなたらなとよく思いますが、実際は、感じ方や症状はなかなか変わりません。
でも経験を伝えてもらえて、私は希望を感じました。ありがとうございます。