未来のこと――複合的な要因を紐解き、発達障害・被虐待児をいかに支援していくか
僕はいつも、やりたい仕事よりも、求められている仕事に追い立てられています。
子どもの精神科医としてスタートした頃は、はじめは学校に行きにくい、行きたくない、行きたいのに行けない子どもたちと出会っていました。それはそれでとても有意義な時間を過ごせたと思います。
しかし、すぐに診察室は発達障害が疑われる子どもたちと、その子との関わりに困り果て疲れ切っている親との出会いの場となりました。僕は子どもたちの成長を信じ、親や家族、関係者を労い励まし、勇気づける役割を担うことを目指しました。臨床を離れ大学での研究時代には、虐待が避けられない事態となり、自然、社会的養護の子どもたちと出会いはじめ、これまで以上に児童相談所等と連携する仕事が増え、再び臨床に戻りました。
発達障害の多様さを知らなかった時代、僕はその視点で子どもたちを診ることができませんでした。マルトリートメント(※)のなかで育った方々の、人への不信感とそれでも人を求め続ける姿を知ってから、発達の躓きはマルトリートメントの結果となる場合もあり、発達障害が沢山の誘因の一つとしてマルトリートメントを生じさせる場合もあることを学びました。
そして最近では、マルトリートメントしてしまう親自身が、子ども時代にマルトリートメントを受けてきた、あるいは生活のなかで深い心の傷を負っていたということにも気がつくようになりました。
子どもの精神科医としてスタートした頃は、はじめは学校に行きにくい、行きたくない、行きたいのに行けない子どもたちと出会っていました。それはそれでとても有意義な時間を過ごせたと思います。
しかし、すぐに診察室は発達障害が疑われる子どもたちと、その子との関わりに困り果て疲れ切っている親との出会いの場となりました。僕は子どもたちの成長を信じ、親や家族、関係者を労い励まし、勇気づける役割を担うことを目指しました。臨床を離れ大学での研究時代には、虐待が避けられない事態となり、自然、社会的養護の子どもたちと出会いはじめ、これまで以上に児童相談所等と連携する仕事が増え、再び臨床に戻りました。
発達障害の多様さを知らなかった時代、僕はその視点で子どもたちを診ることができませんでした。マルトリートメント(※)のなかで育った方々の、人への不信感とそれでも人を求め続ける姿を知ってから、発達の躓きはマルトリートメントの結果となる場合もあり、発達障害が沢山の誘因の一つとしてマルトリートメントを生じさせる場合もあることを学びました。
そして最近では、マルトリートメントしてしまう親自身が、子ども時代にマルトリートメントを受けてきた、あるいは生活のなかで深い心の傷を負っていたということにも気がつくようになりました。
これからの外来・入院診療では、発達障害とマルトリートメントが重なりあっている病態への対応が急がれます。個人的には、その複雑な病態の評価と支援を構築する力をつけていきたいと思います。
※虐待をはじめとする、不適切な養育のこと。
※虐待をはじめとする、不適切な養育のこと。
今後も終わりのない学びを続けていく自己研鑽が、僕には必要です。同時に、これまで関わってきたなかで学んだことに普遍的なこともあります。
それは、出会う方々は皆、これまで生きてきたことをきちんと周囲に理解してほしいという思いがあるということです。評価してもらいたいわけではない。ただ、振り返ると、いつも一生懸命に生きていた自分がいたことを、自身以外の誰かに知っておいてほしいという思いがあることです。だから僕は、教えていただいた話を評価するのではなく、ただただ、聴けたことに、話をしてくれたことに感謝します。もちろん話の中身は壮絶です。それでも教えてくれたことに心から感謝しています。
先日もある方が語られたあとに「私は、大変でしたねっていってほしくて話をしたのではなくて、ただ、知ってほしかったのだろうと思います」と言われました。
僕が信じる精神科臨床とは、その方の生い立ちと生活環境、家族との関係性のなかでの成長変化と、個々にあるその人らしさという個性あるいは特性を、評価し続け、その方の心身を整え、生活の質を高めるよう、共に相談をしていく有り様です。そしてそれは常に「個別の物語」から成り立ちます。
わが子の育ちを通して、自分自身の子ども時代に思いを馳せ、親としての自身の思いから自身の親の思いを推察するとき、それまで抱えてきた自身の親への思いが変化する、あるいは、ずっと蓋をしてきた過去がよみがえる、そんなとき、僕は、親に対して、あなたが主人公としてクリニックを受診をしてみたらどうでしょうかと伝えます。そこに新たな個別の物語が始まります。そうして家族個々のカルテが増えていく…。「きょうだい」ではなくキミ、「父」ではなくあなた、個々の物語には個々の過去と未来があります。そうして診察室は、スピンオフの物語で埋もれていきます。
そこで僕は気づきます。この社会で、だれもひとりぼっちではなかったと。
マーガレット・ラスティンが『発達障害・被虐待児のこころの世界 精神分析による包括的理解』(岩崎学術出版)で「子どもの精神病状態の本質を理解することは計り知れない困難があり、その複合的な原因は理解され始めたばかりである」と述べたように、僕の目指す児童と家族の精神科医療も、ようやくスタートラインに立ったばかりです。
僕は、もう少しワクワクしながら、未来に目を向けていきたいと思います。精神科医になって35年が過ぎ、僕はもう少し、歩みを止めず進んでいきたいと思っています。だから、一緒に未来を見続ける仲間がほしいと、切実に思います。
誰か、誰でもいい、このクリニックでワクワクした仕事を僕と一緒にやりませんか。
それは、出会う方々は皆、これまで生きてきたことをきちんと周囲に理解してほしいという思いがあるということです。評価してもらいたいわけではない。ただ、振り返ると、いつも一生懸命に生きていた自分がいたことを、自身以外の誰かに知っておいてほしいという思いがあることです。だから僕は、教えていただいた話を評価するのではなく、ただただ、聴けたことに、話をしてくれたことに感謝します。もちろん話の中身は壮絶です。それでも教えてくれたことに心から感謝しています。
先日もある方が語られたあとに「私は、大変でしたねっていってほしくて話をしたのではなくて、ただ、知ってほしかったのだろうと思います」と言われました。
僕が信じる精神科臨床とは、その方の生い立ちと生活環境、家族との関係性のなかでの成長変化と、個々にあるその人らしさという個性あるいは特性を、評価し続け、その方の心身を整え、生活の質を高めるよう、共に相談をしていく有り様です。そしてそれは常に「個別の物語」から成り立ちます。
わが子の育ちを通して、自分自身の子ども時代に思いを馳せ、親としての自身の思いから自身の親の思いを推察するとき、それまで抱えてきた自身の親への思いが変化する、あるいは、ずっと蓋をしてきた過去がよみがえる、そんなとき、僕は、親に対して、あなたが主人公としてクリニックを受診をしてみたらどうでしょうかと伝えます。そこに新たな個別の物語が始まります。そうして家族個々のカルテが増えていく…。「きょうだい」ではなくキミ、「父」ではなくあなた、個々の物語には個々の過去と未来があります。そうして診察室は、スピンオフの物語で埋もれていきます。
そこで僕は気づきます。この社会で、だれもひとりぼっちではなかったと。
マーガレット・ラスティンが『発達障害・被虐待児のこころの世界 精神分析による包括的理解』(岩崎学術出版)で「子どもの精神病状態の本質を理解することは計り知れない困難があり、その複合的な原因は理解され始めたばかりである」と述べたように、僕の目指す児童と家族の精神科医療も、ようやくスタートラインに立ったばかりです。
僕は、もう少しワクワクしながら、未来に目を向けていきたいと思います。精神科医になって35年が過ぎ、僕はもう少し、歩みを止めず進んでいきたいと思っています。だから、一緒に未来を見続ける仲間がほしいと、切実に思います。
誰か、誰でもいい、このクリニックでワクワクした仕事を僕と一緒にやりませんか。
このコラムを書いた人の著書
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