先生から語られた驚きの事実

私「今になって当時そちらの施設で最先端の療育が行われていたことが分かりました。あの頃は私自身、検査報告書に書いてあったことの意味もよく理解していなくて、いただいていた報告書を学校や次の療育センターで活かすことができず、“様子見”をしている間に、娘は学校でいじめにもあい二次障害も起こしました。」

先生「そうでしたか。今、こちらの地域では施設の整備も進み、療育センター・幼稚園・学校・各種関係機関の連携も密になっています。実は荒木さんがこちらにいらした時期は一番大変なときだったんです。

阪神淡路大震災直後で震災復興に予算が当てられて、子育て支援に関する計画が先延ばしになった時期でした。各機関連携の計画はもっと早くに実現するはずだったんですよ。」

確かに街中には仮設住宅が残っていました。療育センターの建物も平屋のプレハブでした。

先生の話から、私はなぜ当時の療育センターの廊下に「動かない謎のマッサージチェア」が鎮座していたのか、その理由を察することができました。
【障害年金申請への道vol.3】娘の初診の医療機関へ連絡。カルテは残っている?「診断書」作成の予約もとり...のタイトル画像

【障害年金申請への道vol.3】娘の初診の医療機関へ連絡。カルテは残っている?「診断書」作成の予約もとり...

でもそんな状況下でも研究室の先生方は幼稚園と連携を取り、娘にどう接したらいいかなどを幼稚園の先生に伝えてくださっていました。また、療育時には大学の実習生やボランテイアの生徒さんもセッションに参加し、障害のある子どもたちに明るく接してくれていました。

私はそれで十分と感じていました。

私「そうだったんですね。当時は悩んだり、それなりに辛いこともあったけれど、いま振り返るとそちらで過ごしていた頃が娘の子育ての中で一番幸せな時期だったと感じます。

きっとプロフェッショナルの先生方に見守られ療育を受けることができていたからだと思います。」

大人になった娘の近況を先生に報告して...

私「その後、娘は何とか落ち着き今は特例子会社で働いています」

先生「お母さんは、娘さんが落ち着いた一番の理由は何だと思いますか?」

私「このままじゃダメだと思って、必死に理解してくれる支援者を探したからだと思います。
親だけじゃどうにもならないので本当にみっともないほど、なりふり構わず探しました。
辛かったけど今は二次障害があったこともひっくるめて、それが娘なんだと思っています。」

先生「そこまで言えるのはすごいですね。」

私「はい。15年の間に“恵まれた環境”は待っていても訪れないから自分から動かないとダメなんだと知りました。

あと、私達親子は実際痛い思いをしないと学べないタチなんだなと身を持って経験しました。
いっぱいいっぱい泣きましたけど、その分強くなったのかもしれません。」

障害年金申請の手続きは、『子育て振り返りの旅』

年金申請資料を作っていると、過去の辛かったことを思いだしたり、自分の選択を後悔したりします。ときには自分がしてきたことを恥ずかしく思ったりもします。

でもふとした瞬間に実は幸せだったことに気づきます。じたばたしていた自分を辛抱強く見守ってくれていた人の存在に気が付いて、感謝の気持ちを抱いたりもします。

私にとって今回の障害年金申請作業は、自分の子育ての振り返りの作業だったような気がします。
次ページ「今後に向けて」

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