「限界」だった小6の私へ。不登校だった小中時代、発達障害の私が通信制高校で見つけた居場所【読者体験談】

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現在30代の私は、20代でASD(自閉スペクトラム症)、LD・SLD(限局性学習症)の診断を受けました。小学2年生から学校への行き渋りが始まり、小学5年生で出会った厳しすぎる担任に追い詰められ、小学6年生で不登校になった私。でも、通信制高校での出会いが人生を変えてくれたのです。
発達ナビではユーザーさんからのエピソードを募集中!今回は「不登校・通信制高校での学び直し」についてのエピソードをご紹介します。

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監修: 藤井明子
小児科専門医
小児神経専門医
てんかん専門医
どんぐり発達クリニック院長
東京女子医科大学大学院修了。東京女子医科大学病院、長崎県立子ども医療福祉センターで研鑽を積み、2019年よりさくらキッズくりにっく院長に就任。2024年より、どんぐり発達クリニック院長、育心会児童発達部門統括医師に就任。お子様の個性を大切にしながら、親御さんの子育ての悩みにも寄り添う診療を行っている。 3人の子どもを育児中である。

小学2年生から始まった行き渋り……『NOが言えない』私

現在30代の私は、20代でASD(自閉スペクトラム症)、LD・SLD(限局性学習症)の診断を受けました。
私は、小学2年生から学校に行くのが嫌になっていました。
おとなしい性格のため、誰かに嫌なことを言われても言い返すことができず、「嫌なことを言われたから行きたくない」とだけ母に伝えていました。

でも当時はまだ不登校への理解は低く、母からは「学校に行きなさい」「ずる休みをするな」と怒られる日々。学校に行きたくない私と、行かせたい母で取っ組み合いの喧嘩をしたことも多くありました。そんな中、休み時間は本を読んで過ごし、友人も多くない私でしたが、なんとか小学4年生までは通い続けていたんです。

しかし、小学5年生の時に、すべてが変わりました。

「あの先生のクラスは厳しすぎる」と噂された担任

小学5年生のクラス替えで、指導が厳しい担任の先生になりました。

真冬でも体育の授業時には上に着込むことを許されず、「書くことは考えることだ!」と日記を毎日書くことがクラス全員のノルマでした。あとから聞いた話では、「あの先生のクラスは厳しすぎる」とほかのクラスで噂になっていたそうです。私は先生からは「真面目で優秀な子」「優等生」とよく言われていて、気に入られているほうだったと思います。でも、それがかえって重荷でした。

そして、私にとって最もつらい出来事が起こりました。複数のクラスメイトから学級委員に推薦され、NOが言えない私は半年間学級委員をつとめることになったのです。学級委員に選ばれることや学級委員の仕事は立派なものだと分かっていても、やりたくない役割を押し付けられ、担任の厳しい言動に日々追い詰められていきました。小5と小6は同じ担任が持ち上がることが暗黙のルールだったので、この状況は2年間続くことになりました。
複数のクラスメイトから学級委員に推薦
複数のクラスメイトから学級委員に推薦
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小学6年生で不登校……「もう限界」だった私

小学6年生になっても状況は変わらず、私はついに学校に行けなくなりました。

厳しい担任、やりたくない学級委員、NOが言えない自分……すべてが重なって、私の心は限界を迎えていたのです。両親は私の葛藤や苦しみを見ていて、無理して登校させるようなことはせず、表向きは淡々と受け入れてくれました。でも私自身は、「なぜ学校に行けないんだろう」と自分を責め続けていました。
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