「母の日」のカーネーションは他人事
母の日が近づき、デパートで「今年はどうしようかな…」とプレゼントを選んでいたわたし。
その場を離れてしばらくしてから、「あ、そういえばわたしも母親なんだよな」と気づいたのです。
しかしわたしが息子に対してしていることは衣食住の確保のみ。あとは一緒にゲームに興じたり、漫画を回し読みしたり。
うん、やっぱりわたし、母親らしくない!
息子は息子で「母親だからって好きだというわけではない」ということを、日頃から肯定的な意味で言ってくれます。
「受け取る側の母の日、わたしには関係なし」と、すぐにわたしの頭は切り替わり、
再び自分の母へのプレゼントについて考えはじめたのでした。
その場を離れてしばらくしてから、「あ、そういえばわたしも母親なんだよな」と気づいたのです。
しかしわたしが息子に対してしていることは衣食住の確保のみ。あとは一緒にゲームに興じたり、漫画を回し読みしたり。
うん、やっぱりわたし、母親らしくない!
息子は息子で「母親だからって好きだというわけではない」ということを、日頃から肯定的な意味で言ってくれます。
「受け取る側の母の日、わたしには関係なし」と、すぐにわたしの頭は切り替わり、
再び自分の母へのプレゼントについて考えはじめたのでした。
「お母さん」とは呼ばない息子。そこにはアスペルガーらしい理由があった
頑張っても想像できなかった。だからこそ嬉しかった息子の言葉。
数日後、息子が学校から帰って来るなり「のんにプレゼントがあるんだよ!」と、道端で摘んできたタンポポを手渡してくれました。
大喜びで受け取るわたしに、息子は笑顔で次のような言葉を返してきました。
「のんはさあ、ごはん作ってくれたり部屋をきれいにしてくれたり、ハルができないことをいっぱいしてくれるでしょ。
ゲーセンでも、見てるだけじゃなくて一緒にゲームしてくるし。
漫画だってアニメだって、同じやつを見てるから、話ができるし。
そういうのが嬉しいから、プレゼントしたかったんよ。
のん、花が好きだから、タンポポにしたよ。
いつもありがとう!のんがお母さんで良かった!」
息子から、母としてわたしが感謝されるなんてこと、全く予想していませんでした。
なぜならわたしは母親らしくないから。
「母親ならではの愛」がわからず、それを息子に与えることができないから。
でも息子はそんなわたしの姿をそのまま受け入れ「母親」として認識していたのです。
「子どもが母親を認識するなんて当たり前」とおっしゃる方もいるかもしれません。
でも、わたしにはどう頑張っても想像すらできませんでした。できなかったからこそ、嬉しくてたまりませんでした。
大喜びで受け取るわたしに、息子は笑顔で次のような言葉を返してきました。
「のんはさあ、ごはん作ってくれたり部屋をきれいにしてくれたり、ハルができないことをいっぱいしてくれるでしょ。
ゲーセンでも、見てるだけじゃなくて一緒にゲームしてくるし。
漫画だってアニメだって、同じやつを見てるから、話ができるし。
そういうのが嬉しいから、プレゼントしたかったんよ。
のん、花が好きだから、タンポポにしたよ。
いつもありがとう!のんがお母さんで良かった!」
息子から、母としてわたしが感謝されるなんてこと、全く予想していませんでした。
なぜならわたしは母親らしくないから。
「母親ならではの愛」がわからず、それを息子に与えることができないから。
でも息子はそんなわたしの姿をそのまま受け入れ「母親」として認識していたのです。
「子どもが母親を認識するなんて当たり前」とおっしゃる方もいるかもしれません。
でも、わたしにはどう頑張っても想像すらできませんでした。できなかったからこそ、嬉しくてたまりませんでした。
わたしらしく楽しく子育て!
「母親らしく」ではなく、できるままにわたしらしくふるまっていたら、なんだか息子と仲良くなれました。
だから今のあり方が最善かどうか判別できませんし、ましてや他の方に「これがノゾミ流育児!真似すれば必ず良い親子関係が築けます!」なんて語ることはできません。(笑)
ただ、わたしはこれからも「お母さん」ではなく「のん」としてふるまい、「子ども」ではなく「ハル」との人間関係を築いていこうと思っています。
それしかできませんし、何より楽しくてたまりませんから!
だから今のあり方が最善かどうか判別できませんし、ましてや他の方に「これがノゾミ流育児!真似すれば必ず良い親子関係が築けます!」なんて語ることはできません。(笑)
ただ、わたしはこれからも「お母さん」ではなく「のん」としてふるまい、「子ども」ではなく「ハル」との人間関係を築いていこうと思っています。
それしかできませんし、何より楽しくてたまりませんから!
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