娘の不登校を通してわかった、支援を受ける時に一番大切なこと
ライター:ヨーコ
小2で不登校になった娘は、小3で特別支援学校に転籍し、訪問指導を受けることになりました。初めて自宅を訪問した先生が娘にしたことは、泣いている娘を学校に無理やり連れていくことでした。先生が怖くて従っていた娘はだんだん壊れていき、最後に待っていたのは決定的な出来事だったのです。
特別支援学校の訪問指導とは?
小学校3年生になっても学校に行かない娘。
そんな日々が続き私はノイローゼ状態になってしまいました。
そこで、主治医が提案してきたのが「入院して特別支援学校に転籍し訪問指導を受けませんか?」ということでした。
その病院は院内学級がなく、入院している子どもは希望すれば特別支援学校に転籍し、空き部屋で勉強をみてもらえる。そして退院してからも自宅訪問を受けることができるという話で、私は「無料の家庭教師がつく」という感覚で了承したのです。
不登校は病弱児というカテゴリーに入り、住んでいる地域により都道府県立の特別支援学校に振り分けられました。骨折やぜんそくなどで学校に通えない子と同じ扱いでした。
そして、原籍校(今まで通っていた学校)からは籍は抜けますが、それは生徒たちには知らされず、在籍している扱いになります。というのは、場合によりますが訪問指導はいずれは原籍校に復帰するのが前提だからだそうです。
そんな日々が続き私はノイローゼ状態になってしまいました。
そこで、主治医が提案してきたのが「入院して特別支援学校に転籍し訪問指導を受けませんか?」ということでした。
その病院は院内学級がなく、入院している子どもは希望すれば特別支援学校に転籍し、空き部屋で勉強をみてもらえる。そして退院してからも自宅訪問を受けることができるという話で、私は「無料の家庭教師がつく」という感覚で了承したのです。
不登校は病弱児というカテゴリーに入り、住んでいる地域により都道府県立の特別支援学校に振り分けられました。骨折やぜんそくなどで学校に通えない子と同じ扱いでした。
そして、原籍校(今まで通っていた学校)からは籍は抜けますが、それは生徒たちには知らされず、在籍している扱いになります。というのは、場合によりますが訪問指導はいずれは原籍校に復帰するのが前提だからだそうです。
病院でのマンツーマン指導
入院して手続きも済み、支援学校の担任のA先生と空き室で指導を受けるようになりました。
50歳くらいの、厳しくさばさばした印象の先生で、娘は先生のことを嫌がり、勉強することを拒否し、トイレに閉じこもったり、熱を出してベッドから出てこないということが多かったです。
指導中は親は同席することを許されないので(これは自宅に戻ってからも一緒で、私は外出させられてました)、どのような指導を受けているのか私は知りませんでした。
娘は「先生と勉強したら学校に連れ戻されるんやろ。」「先生は、学校行かなあかん、勉強せなあかんっていうし、行かなかったらもう、学校クビになるかなぁ。」というようになっていました。
何かおかしいな、という違和感を持ちながらも、その時はまだ何が起きているのかわからずにいた私でした。
3週間の入院生活を経て、6月半ばから試験登校というかたちで登校することが、いつの間にか決まっていました。
50歳くらいの、厳しくさばさばした印象の先生で、娘は先生のことを嫌がり、勉強することを拒否し、トイレに閉じこもったり、熱を出してベッドから出てこないということが多かったです。
指導中は親は同席することを許されないので(これは自宅に戻ってからも一緒で、私は外出させられてました)、どのような指導を受けているのか私は知りませんでした。
娘は「先生と勉強したら学校に連れ戻されるんやろ。」「先生は、学校行かなあかん、勉強せなあかんっていうし、行かなかったらもう、学校クビになるかなぁ。」というようになっていました。
何かおかしいな、という違和感を持ちながらも、その時はまだ何が起きているのかわからずにいた私でした。
3週間の入院生活を経て、6月半ばから試験登校というかたちで登校することが、いつの間にか決まっていました。
入院を終えて
試験登校の前の日、娘は怯えて泣いていました。
だけど、いざ強引に連れて行かれてしまうと「みんなが歓迎してくれてうれしかった」と帰ってきてニコニコ笑っているのです。
「ひょっとして、このままいけば大丈夫?」
そう思ったのはつかの間、「帰りたい」コールが学校からかかってくる日が増え、朝から熱を出し「休みたい」というようになりました。休み休みでも学校に行っていたのは「友達と遊びたい」という一心からだったようです。
あまりにも娘の様子がつらそうなので、先生にも主治医にも相談しましたが、「心配し過ぎではないか」「もっと母子分離するべき」といった言葉ではねつけられました。
だけど、いざ強引に連れて行かれてしまうと「みんなが歓迎してくれてうれしかった」と帰ってきてニコニコ笑っているのです。
「ひょっとして、このままいけば大丈夫?」
そう思ったのはつかの間、「帰りたい」コールが学校からかかってくる日が増え、朝から熱を出し「休みたい」というようになりました。休み休みでも学校に行っていたのは「友達と遊びたい」という一心からだったようです。
あまりにも娘の様子がつらそうなので、先生にも主治医にも相談しましたが、「心配し過ぎではないか」「もっと母子分離するべき」といった言葉ではねつけられました。