子どもと過ごす何気ない休日には、思いがけず大人としての姿勢を試される瞬間があります。楽しい遊びの途中で、誰かの泣き声が聞こえる。自分の子どもは夢中で遊んでいる。でも、目の前には困っている子がいる。そのとき僕たちは、何を選ぶのか。
ラフダイトレーニングの中で、うまくいった対応事例や成功事例を紹介しているのですが、今回は少し番外編です。
先日、すごく悲しい気持ちになる出来事がありました。
子どもと一緒に、ザリガニ釣りに行ったときのことです。子どもはもう大喜びで、キャッキャ言いながらザリガニを釣っていました。
そのすぐそば、フェンス越しに、同じくらいの年齢の男の子がいました。たぶん5歳くらいだったと思います。
その子が、ずっと「パパ、パパ」と泣いていたんです。
最初は、近くにお父さんかお母さんがいるのかなと思いました。子どもが泣いているとき、親が少し離れたところにいることはよくあります。
でも、どうも様子が違う。
周りには人がたくさんいました。お母さんらしき人たちもいる。管理人さんのような人もいる。大人はたくさんいるのに、その子を見ている人がいないように見えました。
誰かが対応している感じがしない。
その子はずっと泣いている。
僕は自分の子どもから目を離せないし、ザリガニ釣りの最中でもありました。でも、目の前で困っている子がいる。
そのとき、僕の中で自然に言葉が出てきました。
「ザリガニはいつでもいる。今、この子が困っている」
子どもにもそう伝えました。
「よし、じゃあ、おじさんと一緒にパパかママを見つけるまで探そう。ザリガニはまたあとでできるから」
こういう瞬間は、理屈ではないのだと思います。
もちろん、自分の子どもとの時間も大切です。せっかく楽しんでいる遊びを中断するのは、子どもにとっても少し残念かもしれません。
でも、目の前で小さな子が泣いている。
その泣き方が、ただのぐずりではなく、「誰かを探している泣き方」だった。
大人として、見過ごすことができませんでした。
幸い、探し始めてすぐにお母さんが見つかりました。どうやらお母さんは、売店のようなところでかき氷を買うために並んでいたようでした。
「あ、すみません」
そんな感じで、お母さんが近づいてきました。
「うちの子です」
僕はただ、「よかったですね、見つかって。すごい泣いてたので」と伝えました。
男の子にも、「じゃあね、またね」と声をかけて、その場を離れました。
大きな事件ではありません。
ほんの数分の出来事です。
でも、僕の中には少し引っかかるものが残りました。
大人がたくさんいる場所で、子どもがずっと泣いている。けれど、誰も自分のこととして受け取っていないように見える。
もちろん、みんなそれぞれ事情があります。自分の子どもを見ている人もいる。忙しい人もいる。気づいていなかった人もいるかもしれない。
だから、誰かを責めたいわけではありません。
ただ、こういう場面で「自分には関係ない」と思ってしまう社会は、少し寂しいなと思ったのです。
子どもは、自分の親だけで育つわけではありません。
公園で会う大人、道ですれ違う大人、困っているときに声をかけてくれる大人。そういう無数のまなざしの中で、子どもは世界を覚えていきます。
世界は怖い場所なのか。
それとも、困ったときに誰かが気づいてくれる場所なのか。
その感覚は、こういう小さな場面の積み重ねでできていくのだと思います。
そして同時に、僕は自分の子どもにも見せたかったのだと思います。
困っている人がいたら、立ち止まっていい。
楽しいことの途中でも、誰かを助けることを優先していい。
自分たちの予定よりも、今ここで泣いている誰かの不安のほうが大事なときがある。
これは、言葉で教えるよりも、たぶん行動で見せるほうが伝わります。
「やさしくしなさい」と言うだけでは、子どもには届かないことがあります。
でも、大人が実際に立ち止まり、目の前の子に声をかけ、一緒に探す。その姿を見たとき、子どもは何かを感じる。
ザリガニはいつでもいる。でも、困っている子は今ここにいる。
その判断を、子どもは見ています。
ラフダイトレーニングでも、結局大切なのは、日常の中でどんなふうに関わるかだと思っています。
特別な場面だけではなく、何気ない一瞬にこそ、その人の価値観が出る。
子どもが泣いている。
誰も気づいていないように見える。
自分は今、別のことをしている。
そのときに、どうするか。
それは、支援や教育のテクニック以前に、人としての姿勢の問題なのかもしれません。
僕も完璧な大人ではありません。いつも正しく動けるわけではないし、あとから「ああすればよかった」と思うこともたくさんあります。
でもこの日は、少なくとも立ち止まることができた。
自分の子どもに、「困っている人がいたら、一緒に探そう」と言うことができた。
それだけで、少しだけよかったと思っています。
ザリガニ釣りはまたできます。
池に行けば、ザリガニはまたそこにいるかもしれない。
でも、あの日あの場所で泣いていた男の子の不安は、その瞬間にしかありませんでした。
だからこそ、僕たちはときどき、自分たちの楽しみを少し脇に置いて、誰かの小さなSOSに耳を澄ませる必要があるのだと思います。
子どもたちは、そういう大人の背中を見ています。
そしてもしかしたら、その小さな背中もいつか、誰かが泣いているときに、自然と立ち止まれる人になっていくのかもしれません。
ラフダイトレーニングの中で、うまくいった対応事例や成功事例を紹介しているのですが、今回は少し番外編です。
先日、すごく悲しい気持ちになる出来事がありました。
子どもと一緒に、ザリガニ釣りに行ったときのことです。子どもはもう大喜びで、キャッキャ言いながらザリガニを釣っていました。
そのすぐそば、フェンス越しに、同じくらいの年齢の男の子がいました。たぶん5歳くらいだったと思います。
その子が、ずっと「パパ、パパ」と泣いていたんです。
最初は、近くにお父さんかお母さんがいるのかなと思いました。子どもが泣いているとき、親が少し離れたところにいることはよくあります。
でも、どうも様子が違う。
周りには人がたくさんいました。お母さんらしき人たちもいる。管理人さんのような人もいる。大人はたくさんいるのに、その子を見ている人がいないように見えました。
誰かが対応している感じがしない。
その子はずっと泣いている。
僕は自分の子どもから目を離せないし、ザリガニ釣りの最中でもありました。でも、目の前で困っている子がいる。
そのとき、僕の中で自然に言葉が出てきました。
「ザリガニはいつでもいる。今、この子が困っている」
子どもにもそう伝えました。
「よし、じゃあ、おじさんと一緒にパパかママを見つけるまで探そう。ザリガニはまたあとでできるから」
こういう瞬間は、理屈ではないのだと思います。
もちろん、自分の子どもとの時間も大切です。せっかく楽しんでいる遊びを中断するのは、子どもにとっても少し残念かもしれません。
でも、目の前で小さな子が泣いている。
その泣き方が、ただのぐずりではなく、「誰かを探している泣き方」だった。
大人として、見過ごすことができませんでした。
幸い、探し始めてすぐにお母さんが見つかりました。どうやらお母さんは、売店のようなところでかき氷を買うために並んでいたようでした。
「あ、すみません」
そんな感じで、お母さんが近づいてきました。
「うちの子です」
僕はただ、「よかったですね、見つかって。すごい泣いてたので」と伝えました。
男の子にも、「じゃあね、またね」と声をかけて、その場を離れました。
大きな事件ではありません。
ほんの数分の出来事です。
でも、僕の中には少し引っかかるものが残りました。
大人がたくさんいる場所で、子どもがずっと泣いている。けれど、誰も自分のこととして受け取っていないように見える。
もちろん、みんなそれぞれ事情があります。自分の子どもを見ている人もいる。忙しい人もいる。気づいていなかった人もいるかもしれない。
だから、誰かを責めたいわけではありません。
ただ、こういう場面で「自分には関係ない」と思ってしまう社会は、少し寂しいなと思ったのです。
子どもは、自分の親だけで育つわけではありません。
公園で会う大人、道ですれ違う大人、困っているときに声をかけてくれる大人。そういう無数のまなざしの中で、子どもは世界を覚えていきます。
世界は怖い場所なのか。
それとも、困ったときに誰かが気づいてくれる場所なのか。
その感覚は、こういう小さな場面の積み重ねでできていくのだと思います。
そして同時に、僕は自分の子どもにも見せたかったのだと思います。
困っている人がいたら、立ち止まっていい。
楽しいことの途中でも、誰かを助けることを優先していい。
自分たちの予定よりも、今ここで泣いている誰かの不安のほうが大事なときがある。
これは、言葉で教えるよりも、たぶん行動で見せるほうが伝わります。
「やさしくしなさい」と言うだけでは、子どもには届かないことがあります。
でも、大人が実際に立ち止まり、目の前の子に声をかけ、一緒に探す。その姿を見たとき、子どもは何かを感じる。
ザリガニはいつでもいる。でも、困っている子は今ここにいる。
その判断を、子どもは見ています。
ラフダイトレーニングでも、結局大切なのは、日常の中でどんなふうに関わるかだと思っています。
特別な場面だけではなく、何気ない一瞬にこそ、その人の価値観が出る。
子どもが泣いている。
誰も気づいていないように見える。
自分は今、別のことをしている。
そのときに、どうするか。
それは、支援や教育のテクニック以前に、人としての姿勢の問題なのかもしれません。
僕も完璧な大人ではありません。いつも正しく動けるわけではないし、あとから「ああすればよかった」と思うこともたくさんあります。
でもこの日は、少なくとも立ち止まることができた。
自分の子どもに、「困っている人がいたら、一緒に探そう」と言うことができた。
それだけで、少しだけよかったと思っています。
ザリガニ釣りはまたできます。
池に行けば、ザリガニはまたそこにいるかもしれない。
でも、あの日あの場所で泣いていた男の子の不安は、その瞬間にしかありませんでした。
だからこそ、僕たちはときどき、自分たちの楽しみを少し脇に置いて、誰かの小さなSOSに耳を澄ませる必要があるのだと思います。
子どもたちは、そういう大人の背中を見ています。
そしてもしかしたら、その小さな背中もいつか、誰かが泣いているときに、自然と立ち止まれる人になっていくのかもしれません。