「本当は、ちょっと寂しかった」−障害児のきょうだいだった私が、いま思うこと

ライター:山田小百合
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私には年子の兄と3つ下の弟がいますが、実はどちらも知的障害と自閉症を併せ持っています。現在は父と母と一緒に暮らし、福祉事業所に通う日々を過ごしています。大人になった今、当時の私はどう感じていたのかを思い出し、考えることがあります。今日はそんな私の幼少期の体験と、ワークショップに参加してくれた子どもたちと触れ合う中で感じたことをお話します。

こんにちは。NPO法人Collable(コラブル)の山田小百合です。

私たちは障害があってもなくても、遊んだり学んだりできる環境づくりに挑戦しているNPO法人です。多様な人たちが集う場において、関係性をケアするという視点で、活動を行っています。先日の記事では、さまざまな反響をいただきましてありがとうございました。一つひとつ読ませていただきました。
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「遊ぶように学ぶ」障害の有無問わず、そこに人間関係のつくり方がある

NPO法人 Collable
https://collable.org/
Collableが生まれて3年ほどですが、活動を始めるに至る経緯について、お話する機会を多くいただくようになりました。そのときによく話すのが、自分の家族のことです。今日は私が育ってきた家庭環境について、少し書かせていただこうと思います。

私には年子の兄と3つ下の弟がいますが、実はどちらも知的障害と自閉症を併せ持っています。現在は父と母と一緒に暮らし、福祉事業所に通う日々を過ごしています。

今となっては私自身が東京に暮らすようになったので、彼らと会うのは年2回の帰省のときくらいですが、変わらず元気にしているようです。家族がなかよくしていられるのは、両親のタフで楽観的な性格(?)が影響しているのかもしれません。とはいえ、それなりに考えたり悩んだり、時を経て今気づいたりすることもあるので、そんな経験をみなさんと共有できたらと思っています。

障害のある子のきょうだいに多いのは、「面倒見がよいしっかりした子」

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出典 : http://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=28174005568
障害のある子どものきょうだいである子は、少し考え方が大人びていて、振る舞いも実年齢から数歳上に見えることが多いなと感じます。

Collableのワークショップにも、きょうだいの子が一緒に参加してくれることがありますが、ファシリテーターが説明をする時間に静かに座って待っていたり、落ち着きのないきょうだいに声をかけたりと、しっかりもののお兄さんお姉さん(年が下であっても)です。

例えば、自分の障害のあるきょうだいがトイレに中座したときに「どこにいったの?」と心配そうに質問をしてきたり、言葉が明瞭ではない子が何かを言ったとき「『これ作ったよ』だって。」と何を言ったか教えてくれたりもします。いろんな施設の方にきいても、きょうだいの子はしっかりしていると言う方が多くいます。

振り返ってみても、自分自身もそんな子でした。「さゆりちゃんはしっかりしてて偉いわね」と、もはや言われ慣れてしまうわけです。

おそらくそれは、兄弟が自分より少しできないことを程よく手伝う塩梅を理解して振る舞っていたりとか、弟がパニックになっているときに黙ってそこにいて待っているとか、そういう経験を日常に重ねていったからかもしれません。

きょうだいは福祉や特別支援教育の勉強をしてきているわけではありません。それにもかかわらず、肌感覚として自分のきょうだいをどのようにサポートすれば良いか体得していくことが多いので、「しっかりしている」と見られやすいのかもしれませんね。

きょうだいで「同じ場所に通える」のはやっぱり嬉しい

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私が幼稚園に通っていた歳のころは、兄と同じ地元の幼稚園に通うことができて、幼稚園のお友達や先生たちにはとても良くしてもらっていました。ただし結果として、私が兄と同じ幼稚園に通えたのは1年のみ。私が年中に上がる頃に、兄は別の保育園に移ることになったからです。

兄が別の園に移ることは、その保育園からの要望だったようです。そこから母が市内の園を訪問しては、受け入れてくれるところを探していたことを、おぼろげながらに覚えています。「よそのお家は兄弟が同じ場所に通うのに、なぜか自分の兄弟は同じ学校や園に通えない」という経験をするので、ちょっぴり寂しい気持ちにもなります。

兄が特別支援学校に通ってからも、「交流及び共同学習」の時間に交流校として自分の学校に来ていたときは少し誇らしげでもありました。自分の兄弟のことを知ってもらえる機会が学校という場でもあったので、頻度は人それぞれですが、同じ学校環境の中に少しでもいられるときは嬉しいものです。

Collableのワークショップでも、「兄弟で遊びに来れるところがないので」と来てくださるご家庭もいます。親も子も、根本的には同じ場所にいられることに喜びを感じるものなのかもしれません。

きょうだいのことは大切。だけどやっぱり、どこか寂しい

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同じ場所にいれば嬉しいし、困っていれば面倒も見る、大切な存在。しかし、矛盾するようですが、そのような境遇にある障害児のきょうだいだからこその寂しさもあるように思います。

自分自身を振り返ってみても、同じ場所で遊んでいたとき、親や先生は手のかかる兄と弟に目を向けている、というのは日常茶飯事。自分が大人に見てもらいたいと思う瞬間に誰も見てくれていない、という経験も重ねてきました。

だけど、そこで我慢をしていると、「いい子にしていてえらい」と褒められるので、「兄弟のことを必要なときに手助けしながら、親を困らせないことがいいことだ」と、一種の刷り込みのような状態になっていたような気もします。

私の場合はおかげである日突然、感情が爆発してしまうような経験もありました。「なんでそんなにご機嫌ななめなの!」と怒られても、理由がうまく言えずにいましたが、よくよく考えると、自分の要望には目を向けてもらえないという小さな積み重ねが影響していたのかも、と当時を思い返しました。
次ページ「障害のある子も、そのきょうだいも、家族みんなが健康であるために」

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