「普通」を望む親心は条件付きの愛だったー自閉症児の親子を取材して、小児科医が願うこと
ライター:松永 正訓
私は千葉で小児クリニックを開いている開業医です。診療の合間にささやかながら執筆活動をしています。私はこれまでに、先天性染色体異常によって短命という運命にある障害児の記録や、自宅で人工呼吸器を付けている子の記録を書いてきました。
知的障害のある自閉症児の成長記録を書くことは長年の私の願いでした。自閉症のある子を育てる立石さんとの出会いに恵まれ、『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』という本を聞き書きする機会を得ました。執筆を通して学んだことや社会に対して願うことを記したいと思います。
執筆: 松永正訓
「松永クリニック小児科・小児外科」院長
1987年に千葉大学医学部を卒業後、大学病院を中心に19年間にわたり、小児を専門に臨床、研究、医学教育を行う。1993年には、千葉大学分子ウイルス学教室での小児腫瘍の遺伝子研究に基づき医学博士を取得。
発達障害がある子どもと家族がつむぐ物語を聴き、記したい
知的障害のある自閉症児の成長記録を書くことは長年の私の願いでした。私はこれまでに、先天性染色体異常によって短命という運命にある障害児の記録や、自宅で人工呼吸器を付けている子の記録を書いてきました。
もちろん、障害の重さに「軽重」などありません。それぞれのご家庭が大変な思いを抱えています。ただ、知的障害児には体が元気であるという特徴があります。私のクリニックにも何人もの知的障害児が来ます。その子たちは、クリニック中を走りまくったり、大きな声を上げたりで、母親の神経は休まらないように見えます。
社会との接点が多く、そのたびに衝突をくり返す知的障害のある子の親には、寝たきりの重症児を持つ親とはまた違った種類の苦労があるのだろうと私は以前から思っていました。さらに自閉症という障害は、社会的な障害と言えます。他者とのコミュニケーションが難しかったり、強いこだわりのために社会の中で大きなトラブルを抱えたりするからです。
もちろん、障害の重さに「軽重」などありません。それぞれのご家庭が大変な思いを抱えています。ただ、知的障害児には体が元気であるという特徴があります。私のクリニックにも何人もの知的障害児が来ます。その子たちは、クリニック中を走りまくったり、大きな声を上げたりで、母親の神経は休まらないように見えます。
社会との接点が多く、そのたびに衝突をくり返す知的障害のある子の親には、寝たきりの重症児を持つ親とはまた違った種類の苦労があるのだろうと私は以前から思っていました。さらに自閉症という障害は、社会的な障害と言えます。他者とのコミュニケーションが難しかったり、強いこだわりのために社会の中で大きなトラブルを抱えたりするからです。
立石さん親子との出会い
私は、知的障害のある自閉症児がどういう生活をしているのか、具体的に知りたいと思っていました。そんな時に出会ったのが、立石美津子さんです。立石さんは幼児教育に関する著者・講演家です。そして知的障害のある自閉症の息子さんをシングルマザーとして18年育てています(取材・執筆時は17歳)。
以下、立石さんのことを母と、お子さんの名前を勇太君(仮名)と書きます。私は、聞き書きという形で母から見た勇太君との17年を、『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』(中央公論新社)という本にまとめました。本稿ではこの本を書いたことで、私自身が学んだことを書いてみたいと思います。
以下、立石さんのことを母と、お子さんの名前を勇太君(仮名)と書きます。私は、聞き書きという形で母から見た勇太君との17年を、『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』(中央公論新社)という本にまとめました。本稿ではこの本を書いたことで、私自身が学んだことを書いてみたいと思います。
我が子を、ありのまま受け止めるまで
予測をしていたこととは言え、母は我が子の障害を簡単には受け入れませんでした。こどものこころ診療部の専門医に、2歳の勇太君のことを「知的障害を伴う自閉症」と診断された時、母は医師に対して強い怒りの気持ちを向けます。そして同時に我が子に対して「こんな子は要らない」と拒否感すら持ちます。
母は自分の親から英才教育を受けて育ったため、勇太君にも英才教育を施していました。勉強ができて、いい学校に行って、いい会社に入って、いい家庭を築くことは、母にとっての夢だったのです。しかしこの夢はよく考えてみれば、私たちの誰もが心の中に抱く夢です。そういう意味では「普通」の夢です。
「普通」であることを否定されそうになった母は、医師の診断を誤診だと考え、ドクターショッピングに走ります。5つのクリニックや病院を回った末に、母は自閉症という診断を認めざるを得なくなります。しかし、だからと言って勇太君の未来を諦めてしまうわけではありません。2つの施設に通って療育を受けるのです。
けれども、勇太君を「普通」の子にすることはできませんでした。療育の成果はありましたが、勇太君はあくまでも知的障害を伴う自閉症児なのです。保育園に通う勇太君はみんなと同じ行動が取れません。一列に並んで同じ格好をして歌を歌う子どもたちと離れ、勇太君は一人で絵本を眺めています。その姿を見て、母は絶望的な気持ちになります。この気持ちから母はなかなか抜け出すことができず、抗うつ剤を服用することになります。
ではなぜ、母・立石さんは我が子の障害を受容できたのでしょうか?ある日、精神科病院の窓の向こうに小学生くらいの子どもが佇んでいるのを見たことがきっかけだったといいます。その病院は、適切な育児や支援を受けられなかったためにストレスが昂じ、こころの病気を併発してしまった自閉症児が入院していることで知られていました。母は見知らぬ少年の姿を見たことをきっかけに、我が子・勇太君が「普通」に生きていくことを諦めたといいます。
編集部註)自閉症のある子ども全てがうつ病や統合失調症等の二次障害を発症するわけではなく、周囲の環境とのミスマッチなど、二次障害の要因は人によりさまざまです。
母は自分の親から英才教育を受けて育ったため、勇太君にも英才教育を施していました。勉強ができて、いい学校に行って、いい会社に入って、いい家庭を築くことは、母にとっての夢だったのです。しかしこの夢はよく考えてみれば、私たちの誰もが心の中に抱く夢です。そういう意味では「普通」の夢です。
「普通」であることを否定されそうになった母は、医師の診断を誤診だと考え、ドクターショッピングに走ります。5つのクリニックや病院を回った末に、母は自閉症という診断を認めざるを得なくなります。しかし、だからと言って勇太君の未来を諦めてしまうわけではありません。2つの施設に通って療育を受けるのです。
けれども、勇太君を「普通」の子にすることはできませんでした。療育の成果はありましたが、勇太君はあくまでも知的障害を伴う自閉症児なのです。保育園に通う勇太君はみんなと同じ行動が取れません。一列に並んで同じ格好をして歌を歌う子どもたちと離れ、勇太君は一人で絵本を眺めています。その姿を見て、母は絶望的な気持ちになります。この気持ちから母はなかなか抜け出すことができず、抗うつ剤を服用することになります。
ではなぜ、母・立石さんは我が子の障害を受容できたのでしょうか?ある日、精神科病院の窓の向こうに小学生くらいの子どもが佇んでいるのを見たことがきっかけだったといいます。その病院は、適切な育児や支援を受けられなかったためにストレスが昂じ、こころの病気を併発してしまった自閉症児が入院していることで知られていました。母は見知らぬ少年の姿を見たことをきっかけに、我が子・勇太君が「普通」に生きていくことを諦めたといいます。
編集部註)自閉症のある子ども全てがうつ病や統合失調症等の二次障害を発症するわけではなく、周囲の環境とのミスマッチなど、二次障害の要因は人によりさまざまです。
子どもではなく、親自身が変わる
障害児を授かる親の心理的変遷を分析した専門家の報告は多数ありますが、ある学者は、障害児の誕生を親にとっての「期待した子どもの死」と見なしています。
死の受容というのは、決して簡単なことではありません。最終段階の受容とは「諦め」であると言えるでしょう。しかしながら、障害児を育てるためには「諦め」の先があるはずです。つまり「障害を生きる」という人生が待っているのです。
このためには、今まで持っていた古い価値観を捨てて、新しい価値基準を構築し、我が子に対して「あなたは、あなたのままでいい」と承認する必要があります。
この作業は、まさに「普通」であることの呪縛を断ち切り、世間並みという横並びの生き方と決別し、我が子にとって最も幸せな生き方を理解し、寄り添い、伴走することが重要になります。障害のある子どもを変えようとしてはいけない。それは無理なことです。親自身が変わらなくてはいけないのです。
死の受容というのは、決して簡単なことではありません。最終段階の受容とは「諦め」であると言えるでしょう。しかしながら、障害児を育てるためには「諦め」の先があるはずです。つまり「障害を生きる」という人生が待っているのです。
このためには、今まで持っていた古い価値観を捨てて、新しい価値基準を構築し、我が子に対して「あなたは、あなたのままでいい」と承認する必要があります。
この作業は、まさに「普通」であることの呪縛を断ち切り、世間並みという横並びの生き方と決別し、我が子にとって最も幸せな生き方を理解し、寄り添い、伴走することが重要になります。障害のある子どもを変えようとしてはいけない。それは無理なことです。親自身が変わらなくてはいけないのです。