社会の変化として考える私なりの受け止め方
ニューロダイバーシティの議論について知ったとき、私は何度も考えました。ではあのまま療育を受けさせずに「ありのままの息子」でいさせれば、それが発達障害という脳の多様性を尊重することになったのでしょうか。
確かに息子に施した早期療育は私にとって 「定型発達」に近づけるという目的が見え隠れしていたかもしれません。けれども、療育を受けさせたことによって、辛いことばかりだった息子の育児がなんとも愛おしく充実したものに変わりました。ですから、私は個人的には療育について批判する気にはなりません。課題はあれども、私と息子のクオリティ・オブ・ライフは確かに向上したのです。
「ニューロダイバーシティ」という言葉を取り上げるとき、私は療育の可否について議論するのではなく、今この言葉が日本の各所で使われ始めているということの意味について考えたいと思っています。
発達障害が「障害」や「疾患」ではなく、多様性の中の一つであり、その人の生き方の一つであるという捉え方が、少しずつ浸透し始めているきざしなのかもしれません。「定型発達」に対立する言葉としての「発達障害」ではなく、究極的には誰もが「異なる」存在である――そんな考え方の潮流が社会の中で生じ始めているのかもしれません。
「うちの息子は発達障害」ではなく「うちの息子はニューロダイバーシティ」と言い換えてみると、息子は異質な存在なのではなく、多様性の中の一つであるような心地よい響きがあります。
神経的な多様性を表す「ニューロダイバーシティ」という言葉。それは「みんな違ってみんないい」という考え方が根底にあります。そう考えると、その子がその子らしく、尊重されて生きていくスキルをつけられる療育とニューロダイバーシティは、何ら相反するものではないように思います。
私はこの二つの言葉がうまく融合し共存していくような希望ある未来を信じたいと思います。
確かに息子に施した早期療育は私にとって 「定型発達」に近づけるという目的が見え隠れしていたかもしれません。けれども、療育を受けさせたことによって、辛いことばかりだった息子の育児がなんとも愛おしく充実したものに変わりました。ですから、私は個人的には療育について批判する気にはなりません。課題はあれども、私と息子のクオリティ・オブ・ライフは確かに向上したのです。
「ニューロダイバーシティ」という言葉を取り上げるとき、私は療育の可否について議論するのではなく、今この言葉が日本の各所で使われ始めているということの意味について考えたいと思っています。
発達障害が「障害」や「疾患」ではなく、多様性の中の一つであり、その人の生き方の一つであるという捉え方が、少しずつ浸透し始めているきざしなのかもしれません。「定型発達」に対立する言葉としての「発達障害」ではなく、究極的には誰もが「異なる」存在である――そんな考え方の潮流が社会の中で生じ始めているのかもしれません。
「うちの息子は発達障害」ではなく「うちの息子はニューロダイバーシティ」と言い換えてみると、息子は異質な存在なのではなく、多様性の中の一つであるような心地よい響きがあります。
神経的な多様性を表す「ニューロダイバーシティ」という言葉。それは「みんな違ってみんないい」という考え方が根底にあります。そう考えると、その子がその子らしく、尊重されて生きていくスキルをつけられる療育とニューロダイバーシティは、何ら相反するものではないように思います。
私はこの二つの言葉がうまく融合し共存していくような希望ある未来を信じたいと思います。
本当は行きたいのに。感覚過敏の息子とバズ動画で学んだショッピングモール攻略法
「みんなと違う」多様性は生存戦略!?発達障害のある子たちが人類の未来に必要だ!と思う7つの理由
“療育”は実験室みたいな所?思い違いをしていた私が息子を通わせるまで
- 1
- 2