小学校生活はお遊戯会。誰にも理解されず、浮きこぼれていた私――違和感だらけの子ども時代を振り返って【宇樹義子さん連載開始!】

ライター:宇樹義子
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31歳のときにようやく発達障害を自覚し、32歳で高機能自閉症の診断を受けた私。小学生や中学生のころにはすでに、いつもかなりつらい気持ちで日々を過ごすようになっていました。思い返してみると、こうした生きづらさは発達障害からくるものが大半だったなと感じます。今回は、現在の視点から当時の生きづらさを振り返ってみたいと思います。

感覚過敏、アレルギー、疲れやすさ

発達障害の特性として、感覚過敏(五感が敏感すぎる)や、それとつながっていると思われる疲れやすさがあります。私も小さなころからこれらの特性には苦労していました。生活の中でつらい刺激に耐えなければならないことが多くあったのです。家にいても、特定の服を着ているだけで疲れてしまう。学校では教室の環境だけでもつらく、陽の光や土埃といった刺激の強い校庭の環境はさらに過酷に感じました。

感覚過敏と疲れやすさ

私には、どうにも不快で着られない服がたくさんありました。当時は気づいていませんでしたが、感覚過敏の中の触覚過敏によるものだったと思われます。
素材がチクチクする、首や肩がきつい、縫い目がゴロゴロする、タグが痛痒くなるなど、いろいろな要素が気になりました。周囲の大人はわがままによる選り好みと勘違いし、私を叱責することが多かったので、私は自分が悪いのだと思って、必死に我慢して着ていました。でも、そうするとすぐに疲れてしまったり、具合が悪くなったりする。皮膚が乾燥しやすく、アトピーもあったため、実際にいつも身体のどこかが皮膚炎を起こしているような状態でした。
休み時間などは図書室などの、ほかの児童生徒のいないところに逃げ込みたくなることがありました。私が逃げ込んでいたところの共通点を考えると、音が静か、雑多な匂いがしない、光が明るすぎないといった、感覚過敏にやさしい環境だったことに気づきます。最近国内の空港で導入されつつある、カームダウンスペースのようなものですね。

原因不明のアレルギー

皮膚や粘膜が過敏という意味で触覚過敏とつながっていると思われるのが、原因不明のアレルギー症状です。土埃や花粉、気温差などですぐに目鼻が痒くなったり、のどが詰まるようになって息苦しくなったり、鼻水が出たりしました。こういうときには耳の穴や陰部まで痒くなり、難儀でした。
冬の寒い日のマラソンや、少しでも水が冷たい日のプールでは「喉がヒュッとなる」のが怖かったのもあって、頑なに参加を拒否したことがあったのを覚えています。
いまでも花粉の時期になると症状が出ますし、埃も苦手。50項目ぐらいあるアレルゲン検査を受けてみたら、なにひとつアレルゲンが出ませんでした。ここ10年ぐらいで2度検査してみましたが、結果は同じ…… あるアレルギー内科医によると、「特定のアレルゲンに反応するアレルギーというよりも、刺激全般に過敏な過敏体質という感じではないか」とのことです。

自分の世界観と周囲の人たちの世界観とのギャップ

中学からは私立の進学校に進んだためもあるのかかなり楽になったのですが、私は子ども時代、周囲の人たちの持っている世界観と自分の持っている世界観とのギャップに苦しんでいました。
特に小学校時代は、「自分のようなものの考え方をしているのは私だけ」と感じることが多くありました。「ものごとの筋が通っていない」ことについての苛立ちを言語化できるだけの語彙もまだ与えられていなかったので、強い孤立感と不自由感を感じていました。

学校のさまざまなシーンで、ひとりで違和感を感じていた

「子羊と戯れたあとにジンギスカン鍋を食べた」エピソードは心に残っています。確か小学校低学年のころ、とある農場に遠足に行ったとき、午前中みんなで子羊と戯れたあと、昼はジンギスカン鍋を食べることになっていました。
私はまず、聞いたことのないこの鍋の肉がなんの肉なのかが気になって担任に聞きました。すると、羊の肉だと言う。
私はその瞬間、さっきまで皆で遊んでいた子羊が首を矯(た)められて捌(さば)かれるイメージに頭を占領されてしまいました。人間って残酷だなあという思いにかられ、周囲のクラスメートに「ねえ、この鍋の肉、羊のなんだって」と言ってみると、みんな「ふうん、それで?」という感じで反応したのみで、楽しそうにキャッキャしています。
周囲のだれも、自分が食べる珍しい鍋の肉がなんの肉なのかに興味を持たないばかりか、羊と戯れたあとになんの引っかかりも感じず上機嫌で羊の肉を食べるなんて…私はそれですっかり食欲を失ってしまったのでした。
小学校5年ぐらいだったか、太めだったAくんが一人だけお弁当を持ってくるようになりました。そのとき担任の先生が、「Aくんは健康上の理由でお昼にお弁当を食べることになりました。『脂肪』という成分がAくんの身体によくないんだそうです」と言ったのです。
私は、脂肪のカロリーが高いことはすでに知っていたので、「後半がよけい! Aくんが肥満の治療のためにお弁当を持ってくるようになったことがバレバレじゃないか! 小5の理解度をバカにしてるのか?」と思いました。でも周囲を見てみると、何か特別な反応をしている子はひとりもいなくて、みんな「ふーん」という感じで聞き流していました。
また、同じ担任の先生だったとき、クラスの男の子が出し物で「プロレスをやります」と言い出しました。そこに担任の先生はわざわざ、「プロレスというのはプロの選手がやるレスリングのこと。プロ以外はプロレスを名乗れないから、レスリングと言いなさい」と指摘しました。
いまの語彙でなら、「子どもは概念としての『あのプロレス』、マスクをつけた悪役がいたりするあのプロレスをやりたいのであって、そこにそういう突っ込みを入れるのは興ざめなだけだ。教師が不必要な指摘で子どもの興を削いでどうする」といった表現になるでしょうか。ただ当時はこのような語彙がなかったので、ひたすらにモヤモヤと腹が立ちました。でもこの状況に歯向かう子は一人もおらず、クラスのボスクラスのやんちゃな男の子さえ「レスリングをやります」と素直に言い直したのです。

周囲が「幼稚園児みたい」に見えた

よく言われる、「お友達とみんなで楽しく遊びましょう」という表現にも腹が立ったものです。友達とは双方が互いに友達と考えて成り立つもので、単に同級とか同学年とか同年代とかで決まるものではない。遊びは本人のためにあるもので、それが楽しいかどうかも本人にしか決められないはず。なのに「楽しい遊び」を他人から指示されてするなんて意味がわからない。それに、これはどうも指示とか命令みたいだけど、なぜか「しましょう」の形で言うのは嫌な感じだなあ…… などと私は思っていました。
運動会かなにかの練習で、「ワーと声をあげて、盛り上がった雰囲気でグラウンドに入場しなさい」と先生が指示すれば、子どもたちは「ワー」とカタカナで書けるような平坦な声をあげて入場します。なんだかもう、本当に辟易としました……
学校の授業も易しすぎて、私はよく苛立っていました。私には、みんなが「わからないほうが、答えないほうが人間として上」かのように、我先に「わからない、わからない」と言い、先生から当てられることから逃げているように見えるのです。らちが開かないので私が手を挙げると授業が進む。先生の側も、授業を進めたいときに意識的に私を当てたりして、便利に思っているようでした。
しかし、授業参観のとき、先生がなぜかいつもみたいには私を当ててくれない事態が起きます。いくら手を挙げても先生は無視してほかの子を当てようとするので、私は意味がわからず混乱し、最終的に怒りながら泣きだして、教室をざわつかせたのでした。
今だったらもちろん、「ほかの子にも華を持たせよう」という先生の意図が理解できます。しかし、「それなら事前にひとこと説明してくれればよかったのに。周囲に対する手前もあってその場では説明しなかったのだろうけど、ちょっとそれは子ども個人の気持ちを軽んじてはいないかな?」とも思います。
自習の時間、自由帳の、以前にボールペンで描いた絵のあるページを広げながら本を読んでいたら、学級委員の男の子が「自習の時間なのにお絵かきして、いけないんだ」と言い出しました。いま描いたのじゃない、以前描いたやつだと言ったら、男の子は絵を指でこすって「インクが滲んだから今描いたやつだろう」と食い下がります。
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出典 : http://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=11038018544
「昔描いたやつもインクが滲むかもしれないし、滲むか滲まないかをいま確認する方法はないよね?」と言いましたが、どうも意味が通じないので面倒になって「あなたが私がズルしたと思いたいならそう思っておけば」みたいに言って終わらせたように記憶しています。
傲慢だったかもしれないのですが、このようにして私は小学校時代、「大人も含め、幼稚園のお遊戯のようなことをみんなでやっている」「そこにたった一人異質な者として説明もなしに投げ込まれて、逃げられない」ようなつらさを感じていました。
いわゆる、落ちこぼれよりも「浮きこぼれ」の状態だったように思います。落ちるのだろうが浮くのだろうが、こぼれるつらさは同じ。「成績がいいからってお高くとまってる」と言われたり、「キモい、汚い」とバイ菌扱いされたり、クスクス笑いながら噂されるなど、いじめを経験した私。小学校5、6年のころにはすでに、いま思えば二次障害と思われる精神症状(人が怖い、皆が自分の悪い噂をしているように感じるなど)を感じるようになっていました。

抽象的理解力の高さと、与えられている語彙の小ささとのギャップにも苦しんだ

当時は十分に言語化できないモヤモヤをたくさん抱えていて、私はいつも不機嫌でした。自分がなぜいつも不機嫌なのか、また自分が不機嫌であったこと自体、自分ではわかりませんでした。「抽象的理解力の高さと、義務教育で与えられていた語彙の小ささとのギャップに苦しんでいたのだ」と言語化できてすごく楽になったのは、高校生になって小論文対策にと評論用語を覚えてからです。「幸福の絶対性」とか「比較実験」とかいった言葉を覚えて、パァッと目の前が開けていくような気がしたものです。

本人の中での能力のギャップ

周囲の世界観と自分の世界観との間にギャップがあっただけではなく、私は自分自身の中での能力のギャップも抱えていました。
まずは、知的な面と社会面での成熟度にギャップがありました。ともかく、「暗黙のルール」に気づけないのです。こうこうだからこうしてはいけないんだよ、ときちんと説明されれば理解できるのですが、説明されないかぎり理解できない。
たとえば、思ったことが事実なら全部言う、理詰めで他の子を論破してしまう。注目を浴びたい気持ちが先行してしまって、ほかの子に譲ることを思いつかない。ほかの子がいじめられていることに気づかない、など。
私は勉強しなくても(算数と体育以外は)いつもほぼ満点の好成績をおさめていました。発達障害の知識が普及していなかった当時ですから、周囲の大人が「こんなにできる子なのだから、社会的なルールだってよく理解できるはず→ 理解できているのにルールを破るような言動をするのだから、わざとだ」と、私に悪意があるように勘違いしてしまったのも無理はなかったのかもしれません。
ただ、こちらはいつも精一杯誠実にまじめに生きているつもりなのに、周囲からわがままだとか性格が悪いだとか努力が足りないだとか言われつづけるので、そうとうに傷つきました。相手が子どもでも大人でも同じように接し、おかしいことにはおかしいと主張する私に、暴力や暴言といった虐待を行う担任教師もいたのです。
また、口は達者ですが、動作はのろく、教室移動時などビリっけつ。体育のときはどこか変な動きをするらしく、よく周囲に真似されていじめられていました。算数にだけものすごい苦手意識を覚えていて、「国語で学年1位、算数で学年ビリ、平均がちょうどまんなか」という伝説を作ったこともあります。
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