他の先生の「支援」に触れて
その先生は、息子が苦手としていることに対して常に「こうしたらできるかもしれないよ」とヒントを与えてくださる方でした。息子もそのヒントをもとにやってみたら、できないと思っていたことができたり…ということが何度もあったようです。そして必ず、「大丈夫、君は出来る子だよ」と息子の能力を信じる言葉をかけてくださいました。
あんなに「僕は出来ない子だ」と癇癪ばかり起こしていた息子が、行事のたびに「こんなことができるようになった」「こんなことが楽しかった」と話してくれるようになりました。
毎日息子を見ている私にとって、その変化は目覚ましいもので、驚きを隠せませんでした。
あんなに「僕は出来ない子だ」と癇癪ばかり起こしていた息子が、行事のたびに「こんなことができるようになった」「こんなことが楽しかった」と話してくれるようになりました。
毎日息子を見ている私にとって、その変化は目覚ましいもので、驚きを隠せませんでした。
そして最後の発表会。以前は端役をあてがわれてきた息子が主役を演じる姿がありました。舞台からは「僕は出来ない子なんかじゃない」という息子の言葉が聞こえてきそうでした。
本当に必要な「支援」や「配慮」ってなんだろう?
息子の変化を見て分かったこと。それは、「支援」や「配慮」というのは「出来ないことをさせない」ということではないということです。「どうせ出来ないから」と言って苦手なことを免除してしまうのは、その子にとっての自信には決して繋がりません。
「支援」や「配慮」とは、他の子とはちょっと違う教え方やお手伝いをすることで、発達障害児にとって難しいことを、少しでも楽に出来るようにしてあげることだと思います。「あ、なんだ、こうすれば少し楽にできる」と発見したとき、それが初めて子どもにとって「できた!」という自信に繋がっていくのだと感じています。
「支援」や「配慮」とは、他の子とはちょっと違う教え方やお手伝いをすることで、発達障害児にとって難しいことを、少しでも楽に出来るようにしてあげることだと思います。「あ、なんだ、こうすれば少し楽にできる」と発見したとき、それが初めて子どもにとって「できた!」という自信に繋がっていくのだと感じています。
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