それでもやっぱり「家族でいたい」決意の先に見えてきた道
当時、下の息子は小学校5年生。
思春期の入り口で、とてもこれからの数年間を父親なしに私だけで育てる自信はありませんでした。
また、中学生になったとたんに、娘の進路に就労のことがちらつき始め、なんとなく閉塞感もあったことから
「とにかく家族でタイに行く!!」という方針は変えず、最悪の場合はホームエデュケーションでもいい!!というつもりで方法を探ることにしました。
日本人学校の小学校部支援級にいたお子さんが中学部に上がる時はどうしているのかと聞いたところ、ほとんどが日本に帰るか、現地校に行くとのお返事でした。でも、具体的な行き先は教えてもらえませんでした。
次にあたったのは、「海外子女教育振興財団」です。
ここにメールで相談したところ、インターナショナルスクールで障害児を受け入れているところをいくつか紹介してくれました。
しかし、どこも軽度の発達障害のお子さんが対象のようでした。
その次に、前出のGroup withのページでバンコクにある親の会「OZの会」の存在を知り、そちらにもメールを出しました。
すると、財団では紹介されなかった学校情報をいただくことができました。
そのうちの一つが、娘を受け入れてくれた、イギリス式インターナショナルスクールの養護学校、「The Village International Education Center 」でした。
夫が「14歳の日本人のダウン症の女の子で、全く英語がわからないけれど受け入れてもらえるか?」とメールを出したところ、
「大歓迎です!あなたのお嬢さんのよりよい教育環境を一緒に考えるために、日本からでは大変だと思うけれども、できたら、一度見学に来ませんか?」とすぐにお返事をもらいました。このお返事にどれほど救われたかわかりません。
ちなみに、この他にも、タイの非営利団体が運営している 「サタバン サエン サワン ファンデーション」という、障害児・者の通園施設に通っている日本人のお友達もいました。
思春期の入り口で、とてもこれからの数年間を父親なしに私だけで育てる自信はありませんでした。
また、中学生になったとたんに、娘の進路に就労のことがちらつき始め、なんとなく閉塞感もあったことから
「とにかく家族でタイに行く!!」という方針は変えず、最悪の場合はホームエデュケーションでもいい!!というつもりで方法を探ることにしました。
日本人学校の小学校部支援級にいたお子さんが中学部に上がる時はどうしているのかと聞いたところ、ほとんどが日本に帰るか、現地校に行くとのお返事でした。でも、具体的な行き先は教えてもらえませんでした。
次にあたったのは、「海外子女教育振興財団」です。
ここにメールで相談したところ、インターナショナルスクールで障害児を受け入れているところをいくつか紹介してくれました。
しかし、どこも軽度の発達障害のお子さんが対象のようでした。
その次に、前出のGroup withのページでバンコクにある親の会「OZの会」の存在を知り、そちらにもメールを出しました。
すると、財団では紹介されなかった学校情報をいただくことができました。
そのうちの一つが、娘を受け入れてくれた、イギリス式インターナショナルスクールの養護学校、「The Village International Education Center 」でした。
夫が「14歳の日本人のダウン症の女の子で、全く英語がわからないけれど受け入れてもらえるか?」とメールを出したところ、
「大歓迎です!あなたのお嬢さんのよりよい教育環境を一緒に考えるために、日本からでは大変だと思うけれども、できたら、一度見学に来ませんか?」とすぐにお返事をもらいました。このお返事にどれほど救われたかわかりません。
ちなみに、この他にも、タイの非営利団体が運営している 「サタバン サエン サワン ファンデーション」という、障害児・者の通園施設に通っている日本人のお友達もいました。
ここはプロ集団だ!やっていけそう!
そんなわけで、12月のクリスマス休暇前に母子3人でバンコクへ下見に行きました。
バンコクは思ったよりも都会で、日本語対応の病院も近くにあることがわかりました。街の治安も悪くなく、「ここならばやっていけそう」だと感じたのを覚えています。
そして、家族でインターナショナルスクールの養護学校へ見学に行きました。
ヘッドティーチャーと少し話したのち、実際のクラスに1時間ほど入らせてもらうことに。7.8人の子どもに先生が2人。丁寧に子どもたちを見ながら指導していました。いきなりの訪問にもかかわらず、娘をすんなりと受け入れ、工作をしたり読み聞かせをしたりしてくれました。
娘も嫌がることなく、授業を受けている様子。その間、先生はじーっと子どものことを観察し、何ができて何ができないのかよく見ていました。日本だったら、すぐに「これはできますか?あれはどうですか?」と聞かれるようなところも、全て子どもとのやり取りの中で理解してくれたのです。
できあがった作品に名前を書くとき、最後の最後で「彼女はアルファベットが書けるか?」と初めて私の顔を見て確認する様子を見て、「この人たちはプロ集団だ!やっていけそう!」と強く思うことが出来ました。
バンコクは思ったよりも都会で、日本語対応の病院も近くにあることがわかりました。街の治安も悪くなく、「ここならばやっていけそう」だと感じたのを覚えています。
そして、家族でインターナショナルスクールの養護学校へ見学に行きました。
ヘッドティーチャーと少し話したのち、実際のクラスに1時間ほど入らせてもらうことに。7.8人の子どもに先生が2人。丁寧に子どもたちを見ながら指導していました。いきなりの訪問にもかかわらず、娘をすんなりと受け入れ、工作をしたり読み聞かせをしたりしてくれました。
娘も嫌がることなく、授業を受けている様子。その間、先生はじーっと子どものことを観察し、何ができて何ができないのかよく見ていました。日本だったら、すぐに「これはできますか?あれはどうですか?」と聞かれるようなところも、全て子どもとのやり取りの中で理解してくれたのです。
できあがった作品に名前を書くとき、最後の最後で「彼女はアルファベットが書けるか?」と初めて私の顔を見て確認する様子を見て、「この人たちはプロ集団だ!やっていけそう!」と強く思うことが出来ました。
背中を押してくれたのは、「専門家」ではなくて「私たちをよく知る人たち」
日本の特別支援教育を離れるにあたり、どこかサポートしてくれる機関はないかと、とある公的な相談機関にメールをしたところ「せっかくこれまで日本の教育で育ったのに、英語の環境になってしまうのはもったいない。たった2,3年の事ならば、お父さんに時々日本に帰ってきてもらうなどして親子の関係を保ちながら、日本で暮らすことを考えてもいいのではないか」というお答えもいただいたりもしました。
でも、娘が小さなときから私たち親子をよく知る地域の主任児童委員さんや、保育園、学童の先生、友達も「家族一緒が一番、久保さんちなら大丈夫よ!!私達ここで待っているからいってらっしゃい!!」と笑顔で背中を押してくれました。
そんなわけで、私達は無事2014年の4月からバンコク生活を始めたのでした。
でも、娘が小さなときから私たち親子をよく知る地域の主任児童委員さんや、保育園、学童の先生、友達も「家族一緒が一番、久保さんちなら大丈夫よ!!私達ここで待っているからいってらっしゃい!!」と笑顔で背中を押してくれました。
そんなわけで、私達は無事2014年の4月からバンコク生活を始めたのでした。