きょうだい児だから選ばれなかった?精神疾患、自殺未遂、父との離婚。重度自閉症の兄だけ連れていった母への思い

ライター:スガカズ
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私の7歳上の兄には、重度の自閉スペクトラム症と知的障害があります。
物心ついたときから一緒に生活をしていたこともあって、障害のある人について、普通に受け入れることができましたし、兄を含め家族との関係も良好だと思っていました。
ですが、15歳のときに、それまでの家族関係が一変するほどの、人生の大きな壁に遭遇することになりました。

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監修: 三木崇弘
社会医療法人恵風会 高岡病院 児童精神科医
兵庫県姫路市出身。愛媛大学医学部卒・東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科博士課程修了。早稲田大学大学院経営管理研究科修士課程修了。 愛媛県内の病院で小児科後期研修を終え、国立成育医療研究センターこころの診療部で児童精神科医として6年間勤務。愛媛時代は母親との座談会や研修会などを行う。東京に転勤後は学校教員向けの研修などを通じて教育現場を覗く。子どもの暮らしを医療以外の側面からも見つめる重要性を実感し、病院を退職。 2019年4月よりフリーランスとしてクリニック、公立小中学校スクールカウンセラー、児童相談所、児童養護施設、保健所などでの現場体験を重視し、医療・教育・福祉・行政の各分野で臨床活動を行う。2022年7月より社会医療法人恵風会 高岡病院で児童精神科医として勤務。

いつも家族の中心にいた母が別人になってしまったときのお話

私は15歳のときに、人生の大きな壁に遭遇することになりました。

当時45歳だった母が、統合失調症という精神疾患になったのです。

優しい笑顔が印象的だった母は、ある日から別人のように変わっていきました。
私が15歳のころ母は、統合失調症という精神疾患になりました。感情鈍麻、意欲の低下、思考障害、妄想、幻覚などの症状がありました。
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母は、感情鈍麻によってだんだんと喜怒哀楽の表情が乏しくなり、他者に共感することが減っていきました。
私が話しかけても反応が遅かったり、内容の理解ができず 、会話のキャッチボールが困難になりました。また、物事を進める意欲がなくなり日常生活を送ることが困難になりました。

そのうちに、妄想、幻覚(幻聴、幻視)に怯えたり、思考障害によって会話に一貫性がなくなるようになりました。

まるで別人のように変わってしまった母…。そのころ15歳だったまだ人生経験の乏しい私は、どのように母と向き合えばいいのか分からず、ただただ困惑しました。

その後、自殺未遂や危険を伴う行動など、いろいろありました。
その際に、母自らの強い意思により父と離婚することになりました。そして母は、重度の自閉スペクトラム症と知的障害がある7歳上の兄(当時22歳)だけを連れていくと決めて出ていくことになりました。

母が動けないので、母方の親戚が代わりに母と兄が暮らせるための手続きなどほとんどおこなってくれました。

残された私たち(父、姉、私)はというと、母が統合失調症の幻覚、妄想によって父と関わることを拒否してしまい、父の落ち込みも相当だったため、黙って見守るしかありませんでした。

思春期だった私が感じたこと。「手のかからない“きょうだい児”だったから、私は母に捨てられた」

母は、重度障害のある兄だけを連れて出ていった。私と姉は母に選ばれなかった。それは私にとってとてもショックな出来事でした。
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母が重度障害のある兄を連れていったという事実は、当時思春期だった私にとってショックでした。

なぜなら、3人きょうだいのうちの、兄だけを連れていくということは、私たち(私、姉)からすると「きょうだい児である私(たち)を選ばない」という意味にもなるからです。
姉はもう成人していたので、落ち着いてはいましたが…。

私はそれまで、親から「我慢して」などと言われた記憶はありません(全くない訳ではないと思いますが、記憶にないので、私にとって悩むほどの内容ではなかったのだろうと思います)。
ですが、自分自身で選んでしていたこととして、「重度障害のある兄への対応が優先されるのは重々承知しているから、自分が我慢すれば良い」「母が助かるだろうから、私は手のかからない子でいよう」と思って自分なりに頑張ってきたつもりでした。

それなのに、母は離婚する際に私を連れていかない選択をしました。
私にとっては、「手のかからない子になった結果、重要な場面で母に捨てられた」と思えてなりませんでした。

それでも、今まで「手のかからない子」になる道を選んでいたので、今さら「親を困らせる子」にはなれませんでした。

母のことが大好きだっただけに、裏切られたような気がして、本当にショックでした。
「生きているだけで良かった」と割り切ることができれば良かったのですが…。

両親が離婚した2週間後に私は、公立高校の受験本番を迎えました。そのときの受験した高校には無事合格したのですが、あまりのショックからか受験当日の記憶が全くありません。

表面上は、母と穏やかな関係だけど、私自身の心の中は複雑…

母と父が離婚してからも私はときどき母と兄の住む家に遊びにいったり、泊まりにいったりしました。兄の様子を見て、一緒に住んでいたころと変わらない様子に安心したのを覚えています。
兄が通う作業所での仕事の様子や、家での様子についても母から聞くことができました。

自分の中でわだかまりがありつつも、母と私の関係は穏やかでした。
1年ほどすると、母に合った薬が見つかったようで、統合失調症の症状が緩和され、母に少しずつ笑顔が戻りました。ただ、いつどんなきっかけで症状が悪化するか分からないのと、「自分は母に選んでもらえなかった」という感情がどうしても消えず、表面上は穏やかな関係でも、私自身の心の中は複雑で、腫物に触れるかのような関係でした。
次ページ「大人になってからだんだんと理解ができるようになった、母のやさしい選択」

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