ダウン症の息子と歩いた日々に、父親の僕が教わったこと
ライター:黒木 聖吾
父親としてダウン症の息子を受け入れるまでの日々。インターネットを通じて知らない世界と出会い、仲間とダウン症への理解を進めるNPOを立ち上げた理由。
生後4ヶ月でのダウン症宣告。当時の僕は、受け止められなかった
みなさんはダウン症のある人に、どんなイメージを持っているだろうか?
いまから9年前の2008年、わが家にとって初めての子となる、脩平(しゅうへい)が生まれた。ダウン症があった。
ぼくにとっては、妻との出会い、結婚、子供の誕生と大きな変化が続くなかで、人生最大の出来事だった。
いまから9年前の2008年、わが家にとって初めての子となる、脩平(しゅうへい)が生まれた。ダウン症があった。
ぼくにとっては、妻との出会い、結婚、子供の誕生と大きな変化が続くなかで、人生最大の出来事だった。
脩平がダウン症と診断されたのは生後4ヶ月後。一般的には生まれた直後にダウン症候群と判明することが多いが、脩平は1ヶ月健診でも何も指摘されなかった。授乳に時間がかかったり、泣き声は弱かったものの、一人目の子どもだったので、そういうものかと夫婦で考えていた。
それでもなんとなく違和感があり、大学病院に相談して染色体検査を受けることになった。結果は「問題ない」、となることを夫婦で疑わなかった。違和感を晴らすための検査だった。
しかし、数週間後、聞かされた結果は陽性=ダウン症、だった。
医師から告知された時、「この子はいったいなんなのだろう」と混乱し、涙が出てきた。自分の子どもがダウン症である、ということを受け止めきれなかったのだ。
子どもには自分ができなかったことは何でもやらせてあげようと期待が大きかっただけに、「ダウン症候群」という言葉で頭が真っ白になってしまった。
情けないことに、それから半年間ほどぼくは現実を直視できず、お酒の力を借りては逃避していた。当時を振り返ると、ダウン症のある子どもの成長していく姿や将来を思い描くことができなかったことが、さらに自分を不安にさせていたのだと思う。
それでもなんとなく違和感があり、大学病院に相談して染色体検査を受けることになった。結果は「問題ない」、となることを夫婦で疑わなかった。違和感を晴らすための検査だった。
しかし、数週間後、聞かされた結果は陽性=ダウン症、だった。
医師から告知された時、「この子はいったいなんなのだろう」と混乱し、涙が出てきた。自分の子どもがダウン症である、ということを受け止めきれなかったのだ。
子どもには自分ができなかったことは何でもやらせてあげようと期待が大きかっただけに、「ダウン症候群」という言葉で頭が真っ白になってしまった。
情けないことに、それから半年間ほどぼくは現実を直視できず、お酒の力を借りては逃避していた。当時を振り返ると、ダウン症のある子どもの成長していく姿や将来を思い描くことができなかったことが、さらに自分を不安にさせていたのだと思う。
ダウン症のある人たちがこんなにも社会で活躍している。海外の情報に触れて広がった新たな風景
転機が訪れたのはインターネットだった。
当時、日本語で「ダウン症」と検索しても、出てくるのは育児や療育といった幼少期の話題だけだったが、英語で「Down Syndrome」と検索すると、ぼくの知りたかった「どういう人生を送るのか」という情報が充実していることに気が付いた。
特にアメリカでは、ダウン症のある人が社会に受け入れられ、大学に進学したり、仕事に就いたり、オリンピックに出たり、俳優になったり、様々な分野で活躍していた。
そうした事実に勇気づけられ、自身でも、海外のダウン症に関するポジティブなニュースを翻訳して発信するサイトを立ち上げた。そのサイトを通じて、人との繋がりが広がっていった。
当時、日本語で「ダウン症」と検索しても、出てくるのは育児や療育といった幼少期の話題だけだったが、英語で「Down Syndrome」と検索すると、ぼくの知りたかった「どういう人生を送るのか」という情報が充実していることに気が付いた。
特にアメリカでは、ダウン症のある人が社会に受け入れられ、大学に進学したり、仕事に就いたり、オリンピックに出たり、俳優になったり、様々な分野で活躍していた。
そうした事実に勇気づけられ、自身でも、海外のダウン症に関するポジティブなニュースを翻訳して発信するサイトを立ち上げた。そのサイトを通じて、人との繋がりが広がっていった。
「ただそこにいていい」−誰もが存在を肯定される、そんなつながりを広げていきたい
そして2012年。ダウン症のある子供を持つ父親たちを中心に、地域を越えて、「アクセプションズ」というNPOを立ち上げた。
仲間たちの職業は営業、システムエンジニア、広告、出版など多種多様。それぞれの専門性を活かす形で何かダウン症の啓発活動ができないだろうか?
そんなときに着目したのが、全米ダウン症協会(NDSS)が1995年にはじめたダウン症の啓発チャリティーウォーキングイベント「バディウォーク(Buddy Walk)」だった。
日本でもいままでの障害者イベントのイメージを覆すような、おしゃれでかっこいいイベントを目指したい。そんなコンセプトを胸に、東京でのバディウォーク開催を実現した。
初開催から5年目となった2016年には、渋谷のど真ん中を、600人のダウン症のある人や家族で歩く大パレードとなった。
仲間たちの職業は営業、システムエンジニア、広告、出版など多種多様。それぞれの専門性を活かす形で何かダウン症の啓発活動ができないだろうか?
そんなときに着目したのが、全米ダウン症協会(NDSS)が1995年にはじめたダウン症の啓発チャリティーウォーキングイベント「バディウォーク(Buddy Walk)」だった。
日本でもいままでの障害者イベントのイメージを覆すような、おしゃれでかっこいいイベントを目指したい。そんなコンセプトを胸に、東京でのバディウォーク開催を実現した。
初開催から5年目となった2016年には、渋谷のど真ん中を、600人のダウン症のある人や家族で歩く大パレードとなった。
「障害があってもなくても、ぼくたちは一緒に生きている」
そんな我々のメッセージを、パレードを目にした街頭の人たちは受け取ってくれただろうか。
現在、息子の脩平は小学校3年生。小学校の特別支援学級に通っている。知的な遅れがあり、まだほとんど会話はできない。
彼の世話をいつも焼いてくれる、しっかり者の健常の女の子がいるが、そんな彼女でもたまに学校へ行きたくないことがあるという。そんなとき「しゅうへい君がいてくれるから教室に入れる」のだと、保護者会でその子のお母さんから聞いて嬉しくなった。
きっとそれは障害者に対する優越感や傷の舐め合いとも違う。他人との差異や弱いところも認めあって、障害があってもなくても「ただそこにいていい」とお互いの存在が肯定される、そんな感覚なのかもしれない。
障害者も健常者も一緒に支えあって生きている、と改めて気づかされた出来事だった。
そんな我々のメッセージを、パレードを目にした街頭の人たちは受け取ってくれただろうか。
現在、息子の脩平は小学校3年生。小学校の特別支援学級に通っている。知的な遅れがあり、まだほとんど会話はできない。
彼の世話をいつも焼いてくれる、しっかり者の健常の女の子がいるが、そんな彼女でもたまに学校へ行きたくないことがあるという。そんなとき「しゅうへい君がいてくれるから教室に入れる」のだと、保護者会でその子のお母さんから聞いて嬉しくなった。
きっとそれは障害者に対する優越感や傷の舐め合いとも違う。他人との差異や弱いところも認めあって、障害があってもなくても「ただそこにいていい」とお互いの存在が肯定される、そんな感覚なのかもしれない。
障害者も健常者も一緒に支えあって生きている、と改めて気づかされた出来事だった。
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