ムー・インターナショナルスクールIIでは
読み聞かせの時間があります。
大体10分程度のお話を読んで聞かせるわけですが、
ここでこどもたちに促しているのは、
座って聞けることです。
この時間をカリキュラムの一番最初に入れると、
その日1日のこどもたちのコンディションと
療育の進捗具合がぼんやりと分かるわけです。
今日は集中力がないなぁ、
朝早く起きたのかな?
読み聞かせに参加したくないっているけど
カリキュラム自体今日はやりたくない日なのかな?
このおともだちとは相性が良くないのかな?
などの状態に、指導員側が疑問を持つことができるわけです。
最近つくづく思うのは、
なにかが「できる」ことで能力の差をつけようとしがちだけど
あまりにも短絡的すぎだと思うわけです。
方法がわかって、ロジックを理解して、実現可能な技術を身につければできるわけです。
要は方法がわかっていればできるわけです。
もしくは、継続する、諦めないで努力する力があれば。
継続や、諦めないこと、は
何かを実現するためには必須なので、ある前提としましょう。
方法ややり方、は意外とお金を払わなければ自分で見つけなければならず、ここが一番難しいところだと思います。
できることがすごいのではなく、方法を知るための手段が自身にあることがすごいのだとおもいます。
目玉焼きひとつ焼くのでも、
どれくらいの火加減だと、卵に火が入り切ってしまうのか、
水蒸気で蒸すと、表面上もうっすら火が通る原理とか
油を敷くと、鍋に卵が張り付かないとか
しょうゆを焼く段階で数滴たらしてあげると焦がし醤油の風味がつく
とか、これって全部気づいたり、アレンジしたり、試したいって
疑問や挑戦があってしか成り立たないと思うんです。
でも、中には卵がガビガビに鍋に張り付いたのを剥がして、火が入り切った目玉焼きを食べることに何の疑問を持たない人がいるんです。
でも、その人は卵焼きを自分で作れていると思っているんです。
単なる完成度や、繊細さの話ではなく
気づきの話です。
疑問がないと、発展もさせられないですし、
精度が低いもので満足してしまうんです。
だから、指導員は疑問を持たなければいけないんです。
こどもひとりひとりの変化や成長に気づけなければいけないのです。
でなければ、指導員が大人として何かを導くことはできないのです。
そういった気づきのなさそうな人が
こどもを見てるって嫌ですもんね。
教えるって、教科書を読み進めることや、一つのメソッドを全員に当てはめることが教えることではないと思います。
型にはまって、ズレた常識を許容できない人間が
何を人に教えられるのだろうか、と甚だ疑問に思うことがよくあります。
読み聞かせカリキュラム
教室の毎日
23/09/30 12:36