「個性を大切に」と唱えていながら、学校で障害者排除が起きる理由
2016/09/23 更新
子どもの個性の尊重、他人への思いやり…育児・教育の世界ではこうした美しい言葉がよく掲げられます。ですが実際の現場を見ると、できない子や障害のある子を排除するような大人の言動に出会うことも少なくありません。こうした事態が起こるのはいったいどうしてなのでしょうか。
立石美津子
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30年以上変わらないです。
小学校の長縄跳びで私が引っかかるたびドヤす子供たち。ドッジボールはイジメそのものでしたし、マラソンリレーのコース役割決めも有無も言わせません。
私のようなできない子に発言権はなく、クラスの事考えてないだろ?と凄まれたり、とにかく凄絶極まる生活と言っても全く誇張でありません。
個性とか多様性とか掛け声増えた分悪くなった気さえしますね。
だったら、職場の成果主義を何とかしない限り、学校の問題も解決しない……とは考えたくはないけど……
でも、学校だって、先生たちや給食調理員にとっては職場そのものだし……
だって
どんな意味?
会社でも一人だけで仕事をしている人ってどれだけいる?
成績が大事なら全部個人種目にしておけ。
得意な子、不得意な子がいて当たり前。
それをわかったうえでどうするかが成績よりも大事では?
それが個性を大切ににつながるとおもう
ただ、子供なので、保護者、子供。どちらも、辛いです。はじめから、優秀な数名で、すると、良いのにと、感じました。
お年寄りの、ゲートボールで、さえ、あんたが、下手で、負けた、など。
言い方いるそうです。
他人を、傷つけるなど、平気なんですね。
現代のように個性や多様性が叫ばれなくても、「みんな仲良く明るく元気に」とか空々しい。
保育園時代から他者とのコミュニケーションに大問題を抱えつつ、なぜなのかわからぬまま高校と20代の貴重な時間をドブに捨て、精神障害を抱えつつリハビリするたび社会適応が悪くなり(これは言いましたね)特技も学歴も職歴も個人的人間関係も預金もなく、今ですら役所や街で蔑まれること多々あります。どうしても愚痴りたくなります。
アスペルガーと診断されても「診断はするけど治らないし手が施せない」と医師から告げられ自分で調べるしかなく、職能を身につけようにも、どうしてもダメです。
日本という国から「死ね」と言われてる気分。
この国は戦争中なのです。
ある私立幼稚園から「障害のある子は赤帽子を被せて見分けます。先生の目が行き届かないので、分かりやすくする為ですからご了承ください。」と説明を受けました。
それって差別ですよね・・・
ある公立幼稚園では「自閉の子は水や砂遊びが好きな子が多いので、好きなだけやらせています。給食も食べずにやってる子もいますよ。」
それって保育放棄ですよね・・・
どちらも「インクルーシブ教育」を掲げて積極的に発達障害児を受け入れている園でした。
肉親が教師なのでよくわかります。細かいところまで上からの指示でがんじがらめ。現場教師はガチガチに締め付けられていますから、日本の公立学校でインクルーシブ教育は不可能なのが現状ですよね。
家庭教師を雇うなど、学校は学校得意を引き出したり自己肯定感などを育むのは家庭と割り切るのが障害のあるお子様を持つご家庭の現実的な戦略かと思いました。
配慮が必要な子も、不必要な子も同じ空間で過ごし、お互い助け合うと言う事が出来ない。と言う環境で、どんなに政府が憲法改正をして、合理的配慮を・・・と言ったところで出来ない事は出来ないと現場では混乱がおきてるのでは?とも思ってしまいます。
支援コーディネーターの資格を持つ先生がいても、理解があるかどうかの尺度にはなりません。
家の子の学校は、普通クラスに支援級在籍の子供もずっと同じように居なければいけない環境です。一見、インクルーシブなのですが、実際は、子供はしんどくてもしんどいと言えない子なんかは
辛くても我慢していて、支援担当も介助員もその特性を理解し支援している訳ではないので
ドンドン潰れていく・・・。 不登校は増える一方なのでは無いかと思います。
それを考えると、支援級と普通級に分かれていたとしても、子供の事を考えるとその方が良いと思うんです。
なんでも分かれてたら差別!って決めなくても良いと思います。
共に育つって、お互いにしんどくならない様に配慮しながらでなければ、成り立たないと私は思います。
どんな事に困難があるか、その内容によっては、別室で。で良いじゃないでしょうか?
低学年の頃は、息子も何とかついていけましたし、一緒に参加出来て楽しそうでしたので、通常学級の皆さんと一緒で行きました。
ですが、今年は4年生になり、そろそろ内容も高度になるので、多分ついて行くのが難しいのではないかと考えています。
そこで、養護学校の先生と地域の学校の先生に話合って頂き、今年は地域の学校の支援学級の皆さんと一緒に発表するのも良いかなと考えています。
インクルーシブ教育とは、何がなんでも皆と一緒に、同じ内容をと言う事では無いと思います。
公立の学校でも、プログラムの中に知的障害学級だけの発表の場を作って頂けている学校も多々あり、単元での学習を組んで、それに向かって練習して行く事で本人も通常の学級にいるよりも、主人公になって頑張れる環境を作る事が出来ます。
障害をオープンにしていないと難しいかもしれないですが、障害をオープンにして頑張る覚悟を決めたお子様達が集まり、頑張って何かを発表して行く事は、普通の学級あるいは学校のお子様にもその保護者の皆様にも応援を頂ける事が沢山あります。
また、一般の方から見ますと、自閉症や知的障害等と言うと、本当に何も出来ない様な誤解を生みますが、障害を持ちながら、それぞれの個性を上手く活かし、クラスとして発表して行ければ、障害があってもこんなに沢山色々出来るのだと言う事を、周囲に理解して頂けて、障害者に体する偏見も軽減されて行く様な気が致します。
どれだけ素晴らしい発表が出来るかは、担任の先生の手腕1つであり。
そこには、数々の感動もあります。
大勢の中で、排除されるなら、むしろその中から自分から外に出て、堂々と頑張っている姿を発表出来る場をちゃんと学校に考えて頂く事も1つの方法の様な気がしております。
ご苦労お察しします。
「このままでは社会に出られません」「そんなに社会は甘くない、やっていけない」…など
うちも合理的配慮の申請時に中学から言われています。とある大学教授によると「そんな子でも安心して暮らしていける社会になってないのが悪い」のだそうです。受け入れ幅の狭い社会が悪いと。子どもだけが我慢して調整して負担を強いる、シワ寄せは、どこか違うように思います。私達親子は、十分努力し、頑張っている。そこを教育者は心を寄り添って二人三脚して欲しいと望みます。
授業の中では,自分が親として(になったとして)関わるとき,教師として関わるとき,クラスに障がいを持つ子がいてそのクラスメイトの親として子どもの疑問に答えるとき,などなど,多くの現在想像できない問題を学生に投げかけては語ります。毎授業,ときには100人を超えるクラスであっても感想と質問用紙はびっしりうまってきます。学生は鋭い感性で,素直に,純粋に考え,葛藤し始めます。何も知らなかったこと,何もできなかったこと,考えてこなかったことが悪ではない,すべてこれからなんだと葛藤し始めます。
しかしもしも現場に出てから,現場の先輩方との語りや自分の力量の中で,現実の難しさ,不可能さ,諦めなどだけを実感していけば,これまたすごい吸収力でその部分を学び,そっちが真になって,授業での思いは机上の空論であったと思ってしまうのかもしれません。
この度のコラム,決してこれまでなかった事例とはいえないかとは思いますが,あらためて,学生が学ばねばならないことがたくさん含まれているのかと思いました。まだ回答が出てはおりませんが,何を語って考えさせるのか,本年も熟考させていただきたいと思いました。
ちょっと視点の違うところからの話を長々としてしまいました。これからの教員を育てる重要さを強く思う1個人の意見です。
私は苗字は少数派、実父の兄弟6人中2人聾(難聴)の人が(伯父と伯母)いて、母が父と結婚するという話になるから結納をとなったとき、父の実家の近所の人が「あんた、ツンボの家のやつと結婚か?考えなおしぃな。」と言ったと(ーー;)苦しむ人間は今も昔も偏りが出てしまうものだと、残念ながら認識せざるを得ません。頑張るほど海に溺れるのは弱者。わかってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか?とチェッカーズの歌にもありましたよね。最近特にあの「ギザギザハートの子守唄」を思い出します。
ママさんが多いですが当事者側からの意見も書いてみます。
演奏に関しては好き勝手吹くということはありませんでしたが、
運動は自分も苦手で、運動会は休みたくなるぐらいでした。
ママ友さんから当日は休んで欲しいと言われる
一生懸命ハーモニカを吹いていたのに、実は「故意に」自分のハーモニカを壊されていた
こんなことされたら殆どのママさんはいい気分はしないと思います。
自分を息子の立場に置き換えて考えても、一生懸命やってるのになんで?と考えてしまう気がします。
しかし、現在社会人となり働いているため、どうしてもこの子が「社会人になったらどうなるのか」を考えてしまいます。
そして運動会や演奏会も会社の仕事と置き換えて見てしまいます。
そのように見ると、このコラムの例は社会に於いて頻繁にあるケースなのかもしれないと思ったのが本音です。
子どもは給与も発生せず、業績を上げる必要もありません。
しかし、社会人は障害の有無問わず業績を上げる必要があります。
そうなると、業績を上げるため優秀な人材を採用し、そうでない人材は淘汰されます。
コラムの運動会や演奏会と似たような状況になります。
そして、コラムでは荒っぽいやり方で和を乱さない方法が取られていますが、
社会人の場合では仕事が出来ないことによるいじめや上司からの叱責が起こり得ます。
宜しくない方法ではありますが、いじめは別として上司の叱責は仕方がないものです。
上司にも自分の立場があり、仕事が成功しなければ更に上の上司から叱責されます。
話を運動会演奏会に戻すと、大人になってからのことを考えると、
チーム戦で足を引っ張る子は排除する=会社で淘汰される
演奏会で音が出ないようにする=業績が見込めない人をメンバーから外す
このような見方をしてしまいますし、致し方ないことにも思えてしまいます。
ママさんもお子さんも排除されていい気分はしないと思います。
実際に自分がされるのも不快に思うと思います。
しかし、今回の例は「その子がいなければ成功する」という真っ当な理由があり、
一方的に休めと強要した方やハーモニカに細工をした方を責めることはできないように感じます。
もしこのようなことが起こったらどうすればよいのか。
親に対して何を求めるか考えてみました。
出来ない部分はしょうがないからパスして、出来るところはしっかりやろうねと諭されたら納得がいくように感じました。
発達障害と分かっているのであれば、出来る事と出来ない事の差が激しいのは明白です。
コラムの例はやり方が乱暴ではありますが、結局社会人になったら同じことが起こります。
そして当事者も受け入れなければなりません。
そう考えると子どもの内から出来ないことと出来る事を理解できるような教育を受けたかったと自分は考えます。
このコラムの例は、苦手な分野をやらせないという部分ではまだ気が楽かもしれません。
更につらいのは、苦手でもやらなければいけない場面がいずれは出てくるということです。
発達障害の子どもたちは自分で得意不得意を把握すること。
時には苦手なことにも立ち向かう力が子どもの内に備われば社会人になってもやっていけると感じます。
自分も努力しなければならない。
このコラムは色々考えさせられる内容でした。
うちの息子はオーストラリアで生まれ育ち、ノルウェーでも幼稚園、小学校と通いました。日本へ引っ越してきてから、「個性」が「障害」になりました。「個性を大事に」と掲げながら、何もかもを「皆と同じ」を求められ、皆と同じでないものは「問題」とみなされます。皆と同じに出来るよう、彼の良さを失くしていっているようです。