本日のブログに掲載している、この石の画像。
大体の方がゲーム機のコントローラーの形をした面白い石だという意見を持たれます。
私もそう見えます。
ただ、実際は全くゲーム機のコントローラーとは異なります。
ゲーム機のコントローラーは、
人間が楽しむことを目的に、考えられたゲームの内容を、人の手によって組み合わせた電子機器で操作するための、そこからさらに人の手により馴染む形で設計され生み出されたプロダクトです。
ここに自然が介入する余地は全くありません。
人間の意図でしか作成されていない非自然的・人工的な創造物です。
画像にある石は、
砂や礫が地面の圧力により押し潰されたり、地熱やマグマによって溶かされ生み出された岩が、自然の風や水流などの力が加わり、流され、摩耗され、削り出された偶然によって作られたこの形の生成物です。ここには人の意思は全く介在しません。
ここまで、本質が違うものにも関わらず
人は「ゲーム機みたいな石」で「おもしろい/すごい」という短い言葉でしか表現しません。
たぶんその短い言葉の中や、無意識下の中には、上記に挙げた内容を感じていると思います。
ただそれらが言語化されることはありません。
グレーゾーンのこどもたちにも同じことが起こっているのだと思います。こどもたちの抱えている特性である、こだわりや切り替えのできなさ、学習への困難さという機能差は「ゲーム機みたいな石」くらいの言葉でしか周囲からはとらえてられません。
話は変わって、
60年代後半から70年代前半から始まった美術の考え方で『もの派』はというものがあります。
「もの」をできるだけそのままの状態 で作品の中に並列して存在させることで、それら自体に語らせることを目的とするものでした。
何かを「創造」するというよりは、「もの」 を「再構築」し「もの」と空間との関わり合い方に注目した作品を作ることへの挑戦でした。
簡単にいうと、道端に落ちている石でもデパートのショウウィンドウに置いてあると価値があるように見えるのはなんでだろう?というようなことの模索運動でした。
これらのモノ派の考え方のように、
こだわりが強い、や社会性が低いなどの簡単な言葉に置き換えられてしまうこどもでも、まずは社会と関わりのないものと接続させてあげて、そこからさらに再構築を行い社会と接続させてあげると、新しい社会生活へのアプローチが見出せると私は考えています。
それは、社会や勉強、美術などといった、枠組みと接続させるのではなく、独自の価値観、例えばドレミのドの音に美しさを感じる好みの嗜好性や、大きな声を発散させる気持ちよさに身を委ねる安寧などそういったものにどんな見開きがあるかを探る行為が新しい接続になっていくのだと思います。
ドが好きならば、鐘の響かせるドが好きなのか、コップをスプーンで叩いたドの音が好きなのか、はたまたドという振動が好きなのか。
大きな声も、金切り声がいいのか、オペラ歌手のようなバリトンボイスでの大きな声がいいのか。そういった行動と他に何を組み合わせると面白いだろうかと一緒に模索してあげられることが大人の仕事だと思います。
そういった取り組みが、いつのまにか一般社会での規範への接続もふとした時にできるかもしれません。
もちろん、ずっと好きな価値観を模索し続ける人生の旅人になるかもしれません。
でも、幸せってそういうことなのかもしれません。
こういうふうな考え方を述べた後にいつも思うのは、
指導員に必要なスキルというのは、一般社会を理解した上でさらにそれをブラッシュアップさせた知的活動を行える人材だなぁと思います。じゃないと、こどものことも導いてあげられないのですから。
モノ派
おもうこと
24/01/25 17:03